第64話「言わなかったありがとう」
夜が深くなる前の、静かな時間。
店内の灯りが、やわらかくテーブルを照らしていた。
ドアベルが鳴り、若い女性が入ってくる。
二十代前半。少しだけ急いできたような息づかい。
「いらっしゃいませ」
「……ホットミルク、ありますか」
「はい」
彼女は、席に着くとすぐにスマートフォンを取り出した。
開いては閉じる、その繰り返し。
「言えなかったんです」
ぽつりとこぼれる。
「今日、最後だったのに」
ホットミルクが運ばれる。
白い湯気が、静かに立ち上る。
「お世話になった人で」
視線は画面のまま。
「異動で、もう会えなくて」
一度、言葉が途切れる。
「“ありがとうございました”って、
言うつもりだったんです」
両手でカップを包む。
「でも、タイミング逃して」
少しだけ笑う。
「結局、“お疲れ様でした”だけで」
ミルクを一口飲む。
少しだけ、表情が緩む。
「なんであの時、
言えなかったんだろう」
スマートフォンを見つめる。
「今さら送るのも、
変かなって」
マスターは静かに言う。
「言葉は、
遅れても届きます」
「……」
「その時に言えなかった分も、
含めて」
彼女はゆっくり顔を上げる。
「今でも、いいんですか」
「はい」
「形は変わっても」
彼女は、スマートフォンを持ち直した。
「……送ってみます」
少しだけ迷いながら、文字を打つ。
指が止まり、また動く。
「書けました」
「はい」
「“ちゃんと、ありがとうございましたって言えなかったので”って、
つけてみました」
小さく笑う。
「ちょっとだけ、言い訳ですね」
「それも、言葉の一つです」
彼女は、深く息を吸ってから送信した。
「送りました」
肩の力が抜ける。
「返事、来なくてもいいやって思えます」
「届いたことが、大切です」
彼女は頷いた。
ホットミルクを飲み干す。
「さっきより、あったかい気がします」
「はい」
立ち上がり、会計を済ませる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
ドアの前で、少しだけ立ち止まる。
「今度は、
その場で言えるようにします」
「ええ」
ドアが閉まり、静かな夜が戻る。
喫茶リセットでは、
言わなかったありがとうも、
あとから届けることができる。




