第63話「最後に選ばなかった方」
夕方の光が、少しだけ橙色を帯びてきた頃。
店内は静かで、時間の流れもゆっくりに感じられた。
ドアベルが鳴り、女性が入ってくる。
三十代ほど。手には、小さな紙袋。
「いらっしゃいませ」
「……コーヒーをお願いします」
席に座ると、紙袋から二つの小箱を取り出した。
同じ大きさ、同じ色。
「選んだんです」
ぽつりと言う。
「一つは、買ってきました」
もう一つに視線を落とす。
「もう一つは、置いてきました」
コーヒーが運ばれる。
「迷ったんです。
どっちも良くて」
カップに手を添える。
「でも、両方は持てなくて」
一口飲む。
「選んだ方は、ちゃんと気に入ってるのに」
少しだけ笑う。
「選ばなかった方が、気になって」
もう一つの箱を指で軽く押す。
「これ、見本なんです。
店員さんが見せてくれて」
「はい」
「置いてきた方と、同じもの」
しばらく黙る。
「なんで、こっちじゃなかったんだろうって」
小さく息を吐く。
「後悔ってほどじゃないけど、
引っかかってて」
マスターは静かに言う。
「選ばなかった方も、
そこにあります」
「……」
「選ばなかったからといって、
なくなったわけではありません」
女性は、少しだけ顔を上げた。
「そうか」
「選んだものと、
選ばなかったものは、
並んで存在しています」
彼女は、ゆっくり頷く。
「じゃあ、気になってもいいんですね」
「ええ」
「両方を、ちゃんと見たからこそ」
女性は、ふっと笑った。
「どっちも好きだったんだな」
コーヒーをもう一口飲む。
「選んだ方を、大事にしよう」
小箱をそっと袋に戻す。
「選ばなかった方も、
ちゃんと覚えておきます」
「それで十分です」
立ち上がり、会計を済ませる。
ドアの前で、軽く振り返る。
「迷ったことも、
無駄じゃなかったですね」
「はい」
ドアが閉まり、夕方の光が少しだけ深くなる。
喫茶リセットでは、
選ばなかった方も、
静かに心の中に残されていく。




