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喫茶リセット 〜今日も、誰かの心をそっと整理します〜  作者: 蔭翁


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第62話「名前のない気持ち」


 雨が静かに降る午後。

 窓ガラスに細い筋が流れ、店内の音をさらに遠くしていた。


 ドアベルが鳴り、若い男性が入ってくる。

 二十代半ばほど。どこか言葉を探しているような表情。


「いらっしゃいませ」


「……紅茶を、お願いします」


 席に着いても、しばらく何も言わない。

 ただ、指先でカップの置かれる場所をなぞっている。


「うまく言えなくて」


 紅茶が運ばれた頃、ようやく口を開いた。


「はい」


「なんていうか……」

 言葉を選ぶように、視線を落とす。

「嫌じゃないのに、苦しくて」


 湯気が、静かに揺れる。


「嬉しいはずなのに、

 ちょっとだけ、寂しい感じもあって」


 一度、言葉が途切れる。


「名前がないんです、この気持ち」


 紅茶を一口飲む。


「誰かに話そうとしても、

 説明できなくて」


 小さく笑う。


「結局、“なんでもない”って言ってしまう」


 マスターは静かに聞いている。


「名前がないと、

 存在しないみたいで」


「そう思われますか」


「はい」


 彼は、カップを両手で包む。


「でも、確かにあるんです」


 少し強く言う。


「ここに」


 胸のあたりに手を当てる。


 静かな時間が流れる。


「名前がなくても、

 気持ちはあります」


 マスターがゆっくり言う。


「……」


「言葉は、後からついてくることもあります」


 男性は、少しだけ顔を上げた。


「今は、まだ途中ってことですか」


「はい」


「この感じのままでも、いいんですね」


「ええ」


 彼はもう一口、紅茶を飲む。


「さっきより、

 少しだけ落ち着いてきました」


「形にならなくても、

 整うことがあります」


 彼は小さく頷いた。


「無理に名前、つけなくていいか」


 少しだけ笑う。


「そのうち、

 分かるかもしれないし」


 カップを置く音が、やわらかく響く。


「今日は、このまま持って帰ります」


「はい」


 立ち上がり、軽く会釈する。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 ドアが閉まり、雨音が戻る。


 喫茶リセットでは、

 名前のない気持ちも、

 そのまま受け入れられる。

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