第61話「言い直せない一言」
夕方と夜のあいだ。
店内には、少しだけ影が長くなり始めていた。
ドアベルが鳴り、男性が一人入ってくる。
三十代くらい。どこか落ち着かない様子で、席に着いた。
「……コーヒーを」
「はい」
注文のあと、すぐに口を開く。
「言い直せないんです」
マスターは静かにコーヒーを淹れる。
「昨日、
ちょっと強い言い方をしてしまって」
指先でテーブルを軽く叩く。
「本当は、あんなつもりじゃなかったのに」
コーヒーが置かれる。
「でも、一度言ったことって、
戻せないじゃないですか」
「ええ」
「その場で言い直せばよかったのに」
苦笑する。
「変な意地で、そのままにしてしまって」
一口飲む。
いつもより少し苦く感じる。
「今さら、訂正するのも変で」
「はい」
「もう、あの一言のまま残ってる気がして」
カップを見つめる。
「言葉って、重いですね」
「出したあとに、重さが分かることもあります」
男性は黙る。
「もう一度、同じ場面に戻れたらいいのに」
「戻れなくても、
言葉は増やせます」
「……増やす?」
「一つの言葉のあとに、
別の言葉を重ねることはできます」
男性は顔を上げた。
「取り消しじゃなくて?」
「ええ。取り消すのではなく、
続ける」
少し考える。
「“あの時は、こう言ったけど”って?」
「はい」
男性は小さく息を吐いた。
「それなら、できるかもしれません」
スマートフォンを取り出す。
「言い直せないけど、
言い足すことはできる」
画面を見つめる指が、ゆっくり動く。
「……送ります」
短い文章を打ち、送信した。
送ったあと、少しだけ肩が下がる。
「まだ、遅くないですかね」
「言葉は、届いた時が今です」
男性は、ふっと笑った。
「確かに」
コーヒーを飲み干す。
「さっきより、少しだけ軽いです」
「それで十分です」
立ち上がり、会計を済ませる。
「また来ます」
「お待ちしています」
ドアが閉まり、夜の気配が少し濃くなる。
喫茶リセットでは、
言い直せない一言も、
続きの言葉でやわらいでいく。




