第60話「残していく席」
夜の入り口。
店内には、静かな明かりが灯っていた。
ドアベルが鳴り、一人の女性が入ってくる。
三十代後半ほど。どこか落ち着いた雰囲気をまとっている。
「いらっしゃいませ」
「……温かいコーヒーを」
彼女は、店内を一度ゆっくり見渡してから、席に着いた。
「ここ、初めてなのに」
小さく呟く。
「少しだけ、知っている気がします」
マスターは何も言わず、コーヒーを淹れる。
カップが置かれると、彼女は両手で包み込むように持った。
「明日、引っ越すんです」
「そうですか」
「長く住んでいた場所を、離れて」
視線はカップの中へ。
「嫌だったわけじゃないんですけど」
「はい」
「このままだと、変われない気がして」
一口飲む。
「……温かい」
ほっと息がこぼれる。
「色々、置いてきました」
「例えば」
「思い出とか、
人との距離とか」
少しだけ笑う。
「全部持っていくのは、重くて」
店内の静けさが、やわらかく続く。
「ちゃんと、置いてきたはずなのに」
「はい」
「少しだけ、不安で」
カップの縁をなぞる。
「これでよかったのかなって」
マスターは静かに言う。
「席を立っても、
その場所が消えるわけではありません」
「……」
「残したものは、
そこにあります」
彼女はゆっくり頷く。
「戻ろうと思えば?」
「戻ることもできます」
「でも、戻らない」
「はい」
彼女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんと置いてきたんですね」
「ええ」
カップを見つめる。
「ここも、
いつか出るんですよね」
「はい」
「その時、この席は?」
「次の誰かが、座ります」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「いいですね、それ」
コーヒーを飲み干す。
「全部を持っていかなくても、
ちゃんと続いていくんですね」
「ええ」
立ち上がり、会計を済ませる。
ドアの前で、一度振り返った。
「ここも、
残していきます」
「はい」
静かに頭を下げ、外へ出る。
ドアが閉まり、店内は元の静けさに戻る。
空いた席には、まだ少しだけ温もりが残っていた。
喫茶リセットでは、
残していく席も、
次の誰かへと繋がっていく。




