第58話「置いてきた声」
夕暮れ前。
まだ明るいのに、どこか終わりの気配が混じる時間。
ドアが静かに開き、年配の女性が入ってきた。
歩幅はゆっくりで、手には小さな紙袋。
「いらっしゃいませ」
「コーヒーを、ひとつ」
席に着くと、紙袋をそっとテーブルに置いた。
中には、古いカセットテープが見える。
「これ、見つけたんです」
「はい」
「昔の録音で」
指で袋の口をなぞる。
「もう、聞く機械もないのに」
コーヒーが運ばれる。
「誰の声かは、わかってるんです」
「そうですか」
「でも、聞いてないんです」
カップを手に取りながら、少しだけ視線を落とす。
「聞いたら、
ちゃんと思い出しちゃうから」
湯気が、細く揺れる。
「忘れたわけじゃないんですけど」
「はい」
「遠くに置いてきたままの感じで」
コーヒーを一口飲む。
ゆっくりとした仕草。
「声って、戻ってきますよね」
「はい」
「一気に」
女性は小さく頷く。
「元気な頃の声で、
そのまま」
少しだけ微笑む。
「それが、怖くて」
テーブルの上の紙袋に視線を戻す。
「聞かないままでも、
いいんでしょうか」
「そのままにしておくことも、
一つの距離です」
「距離……」
「近づくことだけが、
向き合うことではありません」
女性はしばらく黙る。
「このまま、
置いておいてもいいのね」
「はい」
「でも、いつか」
「ええ」
「聞きたくなるかもしれない」
指先で紙袋を軽く押さえる。
「その時は、
今より少しだけ、
受け取れるようになっているかもしれません」
女性はゆっくり息を吐いた。
「今日は、持って帰ります」
「はい」
「開けずに」
紙袋を丁寧に持ち上げる。
「でも、捨てません」
立ち上がると、少しだけ背筋が伸びる。
「置いてきた声を、
そのままにしておくのも、
悪くないですね」
「ええ」
ドアが開き、夕暮れの風が入る。
喫茶リセットでは、
置いてきた声も、
無理に呼び戻さなくていい。




