第48話「消えない香り」
朝と夕のあいだ、
どちらとも言えない柔らかな時間。
喫茶リセットのドアが静かに開いた。
入ってきたのは、三十代ほどの女性。
手には小さなハンカチを握っている。
「……ここ、コーヒーの香りがしますね」
「はい。店ですから」
女性は少しだけ笑い、カウンター席に座った。
「ホットを、お願いします」
豆を挽く音が、店内に広がる。
「私、
香りが苦手になってしまって」
「どんな香りですか」
「柔軟剤とか、香水とか……
あの人が使っていた匂いに似ていて」
マスターは静かに湯を注ぐ。
「別れたんです」
女性は、ハンカチを強く握った。
「もう前に進んでいるはずなのに、
街ですれ違うだけで、戻ってしまう」
カップが置かれる。
立ちのぼる香りが、ゆっくりと彼女を包む。
「……怖い」
「無理に吸い込まなくても」
「でも、逃げたくないんです」
彼女は目を閉じ、小さく息を吸った。
コーヒーの苦くて、少し甘い匂い。
「違う」
「ええ」
「ちゃんと、違う」
彼女の肩が、少しだけ下がる。
「同じ匂いなんて、
本当はないのかもしれませんね」
「記憶が、
似せてしまうことはあります」
一口飲む。
「……落ち着く」
「今の香りです」
女性はハンカチをバッグにしまった。
「消えない匂いがあるんじゃなくて、
私が、まだ握ってただけか」
「放すのも、
少しずつで」
彼女は、もう一度カップを持ち上げる。
「この香り、覚えて帰ります」
「どうぞ」
ドアが閉まり、
店内にまたコーヒーの香りが満ちる。
喫茶リセットでは、
消えないと思っていた記憶も、
新しい香りで、そっと上書きされていく。




