第35話 少しだけ寂しくなった日
今日も頑張る、派遣さん。
その日の朝、オフィスへ足を踏み入れた瞬間、いつもとは少し違う空気が流れていることに気づいた。キーボードを打つ音や電話の声はいつもと変わらず聞こえているのに、その奥にある空気だけがどこか落ち着かず、小さなざわめきが静かに広がっている。みんなが何度も同じ方向へ視線を向けていることにも、すぐに気がついた。
何があったのだろうと思いながら自分の席へ向かい、そこで足がほんの少し止まる。
斜め前の席にいるはずの吉田さんが、机の上を片づけていた。
書類をまとめ、引き出しの中を整理し、デスクの上に置いていた私物を静かにバッグへしまっていく。そのひとつひとつの動きが、妙に胸に引っかかった。
近くで交わされている会話が耳に入り、急な異動らしいということだけがぼんやり分かる。詳しい事情までは聞こえてこないし、そもそも派遣の自分のところにそういう話が届くこともない。ただ、聞こえてくる言葉の端々をつなぎ合わせながら、そうなのだと理解するしかなかった。
けれど、理由なんて本当はどうでもよかった。
胸の奥に残ったのは、ただひとつ。
――もう、ここにはいなくなるんだ。
そのことだけが、静かに重く心へ落ちていく。
少し前までは、会社へ来ることはただ仕事をするための時間だった。けれど最近は違う。朝の「おはよう」が少し嬉しくて、帰り際の「お疲れ様」が少しだけ待ち遠しくて、ふとした瞬間に姿を探してしまう。そんな小さな楽しみが、いつの間にか毎日の中へそっと入り込んでいた。
その楽しみが、何の前触れもなく静かに消えようとしている。
吉田さんは席を立ち、ひとりひとりに丁寧に声をかけながら挨拶をして回っていた。笑顔で言葉を交わし、握手をしている人もいる。「寂しくなるなあ」と惜しむ声があちこちから聞こえ、その輪が少しずつこちらへ近づいてくるたびに、胸の奥が小さく高鳴る。
最後にひと言だけでも話せたら。
お世話になりました、と伝えられたら。
それだけでよかった。
そう思いながら、気づかれないようにそっと背筋を伸ばして待つ。
けれど吉田さんは途中で別の人に呼び止められ、そのまま挨拶の流れは変わってしまった。輪は別の方向へ流れ、気づけば最後まで自分の席へ来ることはなかった。
ほんの少しだけ抱いていた期待が、胸の中で静かにしぼんでいく。
仕方がないのだと思う。
派遣の自分に、わざわざ最後の挨拶をする理由なんてない。頭ではちゃんと分かっている。それでも、分かっていることと寂しさは別のところにあるらしく、胸の奥がじんわりと痛む。
昼休みになると、今日はみんなで送別会をするらしいという話が聞こえてきた。どこの店にするのか、何時に集まるのか、そんな楽しそうな会話があちこちから聞こえる。その輪の中に自分の名前が混ざることはなく、もちろん声をかけられることもない。
それも当たり前のことだ。
分かっている。
分かっているのに、その「当たり前」が、今日はいつもより少しだけ寂しい。
画面に目を向け、キーボードに手を置く。指はいつも通りに動き、仕事も問題なく進んでいく。何も変わらないはずなのに、心の中だけがぽっかりと静かに空いている。
朝の「おはよう」を待つ楽しみも、帰り際の「お疲れ様」を聞ける嬉しさも、今日で終わってしまう。
そう思うだけで、胸の奥に小さな冷たさが残る。
――やっぱり、寂しいな。
心の中でそっとつぶやく。
今日も、ここで働いている。
それは変わらない。
でも、ほんの少しだけ、
会社へ行く楽しみが、静かにひとつ消えてしまった気がした。




