第34話 少しだけ楽しみが増えた日
今日も頑張る、派遣さん。
朝のオフィスには、まだ一日の忙しさが満ちる前の、静かでやわらかな空気が流れていた。立ち上がるパソコンの電子音と、早く出社した人たちの小さな話し声が重なり合い、そのどれもが穏やかにフロアへ広がっていく。
席に着いてバッグを置き、いつものようにパソコンの電源を入れる。ゆっくりと明るくなっていく画面をぼんやり見つめながら、今日もまた一日が始まるのだと、静かに気持ちを仕事へ向けていく。
そんな朝の空気の中で、不意に耳へ届く声がある。
「おはよう、鈴木さん」
少し低くて落ち着いた、その聞き慣れた声を耳にすると、自然と顔が上がる。視線の先には、斜め前の席にいる吉田さんが、いつものように穏やかな笑顔を浮かべて立っていた。
ただ挨拶を交わしているだけなのに、その笑顔を見るたびに胸の奥がふっとやわらかくほどけていくような気がする。
「おはようございます」
返事をしながら、自分の声がほんの少し明るくなっていることに気づき、誰にも分からないように心の中でそっとごまかす。
吉田さんは、いつも変わらない。
朝は必ず声をかけてくれて、帰るときには少し離れた場所にいても、よく通る明るい声で「お疲れ様」と言ってくれる。その何気ないひと言が、忙しく流れていく一日の中で不思議なくらい心に残る。
コピー機の場所が分からず立ち尽くしていたときも、誰に書類を渡せばいいのか分からず困っていたときも、気づけばいつの間にかすぐそばにいて、「それ、こっちですよ」と、ごく自然に声をかけてくれた。
助けてくれたことを恩着せがましく口にすることもなく、ただ当たり前のように手を差し伸べて、何事もなかったように自分の仕事へ戻っていく。そんなさりげない優しさに、気づけば何度も助けられていた。
そして何より嬉しいのは、吉田さんだけがいつも自分のことをきちんと「鈴木さん」と名前で呼んでくれることだった。
その呼び方が、思っていた以上に胸の奥へ静かに沁みていく。
もちろん、それに特別な意味なんてないことは分かっている。ただ誰にでも自然に優しくできる人なのだろうと思う。それでも、その優しさが自分へ向けられるたびに、心のどこかがそっと揺れる。
最近では、ふと気がつくと視線でその姿を探している。
電話をしている横顔も、誰かと話しながら笑っている声も、真剣な表情で画面に向かう姿も、そんな何気ない一瞬一瞬が、なぜか自然と目に入ってしまう。
そんな自分に、ふと気づいて小さく驚く。
――あれ、また見てる。
そう思ってそっと視線を戻しても、少し時間が経つと、また無意識のうちに目で探してしまう。そこにいることを確認すると、なぜだか少し安心する。そんな自分の変化が、くすぐったくて、少しだけ恥ずかしい。
少し前までは、仕事を覚えることに必死だった。名前を呼ばれることが嬉しくて、自分の居場所があるように感じられるだけで十分だったはずなのに、いつの間にか心の中に小さな変化が生まれている。
朝の「おはよう」が嬉しくて、帰り際の「お疲れ様」が少しだけ待ち遠しい。
それだけのことなのに、会社へ向かう足取りまで、前より少しだけ軽くなっている気がする。
これを好きと呼ぶには、まだ少し早いのかもしれない。
ただ、毎日の中に小さな楽しみがひとつ増えただけ。
ほんの少し心がやわらかくなる時間が、自分の中に生まれただけ。
……きっと、ただそれだけ。
そう思いながらも、胸の奥に灯った小さなあたたかさは、今日も静かにそこにあった。
今日も、ここで働いている。
それは変わらない。
でも、ほんの少しだけ、会社へ行く楽しみが増えた気がした。




