第36話 明日は、行けますように
今日も頑張る、派遣さん。
朝、目を覚ました瞬間から、体の奥に重たいものが沈んでいるような感覚があった。
まぶたの裏はじんわりと熱く、喉は痛く、体の節々まで鈍く痛む。
起き上がろうと力を入れてみても、思うように体がついてこない。
額へそっと手を当てると、自分でも分かるほど熱を持っていて、小さく息をついた。
今日は無理だ――そう思った瞬間、胸の中へ浮かんできたのは、自分の体調よりも先に会社のことだった。
途中まで作っていた企画書のこと、昨日の会議で話していた内容、これから進めるはずだった仕事のこと。
せっかくプロジェクトへ入れてもらえて、少しずつ任されることが増えてきたばかりなのに、その流れから自分だけが外れてしまうような気がして、熱とは別の落ち着かなさが胸の奥に広がっていく。
本当は休みたくない。
迷惑をかけたくない。
置いていかれたくない。
そんな思いが次々と浮かぶけれど、この熱で出勤しても何もできないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
会社へ連絡を入れ、病院へ行き、薬をもらって家へ戻る。
部屋へ入った途端、外の世界と切り離されたような静けさに包まれて、いつもの休日とはまるで違う時間が流れ始めた。
テレビをつける気にもなれず、カーテンの隙間から差し込む淡い光をぼんやり眺めながら横になっていると、薬のせいか熱のせいか、浅い眠りに何度も引き込まれ、そのたびにぼんやりと目を覚ます。
気がついたときには、窓の外はもう真っ暗になっていた。
何もしていないのに、一日だけが静かに終わっていく。
その時間の流れに取り残されたような気がして、胸の奥に小さな心細さが残る。
こうやって何日か休んでしまうと、行きづらくなるのよね――そんな思いが、熱でぼんやりする頭の隅にふと浮かんだ。
以前いた職場には、同じ派遣の人が何人もいて、その中には自然と仲良くなった人もいた。
体調を崩して休んだ日には「大丈夫?」と連絡をくれたり、「無理しないでね」と気づかってくれる人がいた。
そのひと言があるだけで、不思議と安心できた。
ちゃんと戻れる場所があるのだと思えて、熱が下がればまたいつものように「おはようございます」と言って出勤できた。
けれど今は違う。
同じ派遣の人もいなければ、気軽に連絡を取り合うような相手もいない。
もちろん心配の連絡が来ることもない。
それが当たり前なのだと分かっているのに、その当たり前が、今日はいつもより少しだけ胸に沁みた。
静かな部屋の中でひとり横になっていると、ふいに思い出す声がある。
「おはよう、鈴木さん」
少し低くて落ち着いた、あの優しい声。
毎朝当たり前のように聞いていたその声は、もうこの会社で聞くことはないのだと思うと、胸の奥が静かにきゅっと痛む。
体が弱っているせいなのか、それとも心が少し疲れているのか、自分でもよく分からないまま、ただひとりでいる寂しさだけが、熱のようにじんわりと胸の奥へ広がっていく。
それでも明日には少し熱が下がって、またいつもの席に座れたらいい。
パソコンを立ち上げて、いつものように
「おはようございます」と言えたらいい。
そんな小さな願いを胸の中でそっと抱えながら、毛布を肩まで引き上げる。
重くなっていくまぶたを閉じる、そのほんの少し前、心の中で静かにつぶやく。
――明日は、行けますように。
その願いを抱いたまま、静かな夜の中へ、ゆっくりと眠りが降りてきた。




