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第31話 名前を間違えられた日

今日も頑張る、派遣さん。


 午前のフロアは、いつも通りの空気だった。


 キーボードの音と電話の声が重なり、それぞれがそれぞれの仕事をしている。


 画面に向かいながらいつもの作業を進めていると、


「田中さん、これお願いできますか?」


 声をかけられる。


 一瞬だけ指が止まり、頭の中でゆっくり確認する。


 ――田中さん?


 自分の名前は、鈴木。田中ではない。


 でも、その場の流れを止めるのも違う気がして、ほんの少し迷ったあと「はい」と反射的に返事をしてしまう。


 そのまま書類を受け取り、違う名前のままやり取りが進んでいく。


 胸の奥がじわっと落ち着かない。


 ――今、言えたかもしれない。


 そんな思いが少し遅れて浮かぶけれど、ほんの一言がなぜか出てこなかった。


 気づいたときには、もうタイミングを逃している。


 隣の席の人がそのやり取りをちらっと見ていて、視線を感じると少しだけ気まずくなる。


 顔がほんのり熱い。


 何もなかったように作業に戻るけれど、さっきのやり取りだけが頭の中に残り続けている。


 ――まあ、いいか。


 そう思おうとしても、完全には流しきれない。


 少しして、また声がかかる。


「田中さん、さっきの大丈夫でした?」


 今度はほんの少しだけ間があく。


 やっぱり違うと分かっているのに、訂正するタイミングはもう見つからない。


「はい、大丈夫です」


 結局またそのまま返事をしてしまう。


 その瞬間、隣から小さくくすっと笑う声が聞こえ、やっぱり気づいていたらしいと思う。


 少しだけ顔が熱くなる。


 恥ずかしいのに、どこか少しだけおかしい。


 その感覚が自分の中で混ざる。


 すると、


「すみません。派遣さんの名前は田中さんじゃないですよ」


 隣の席の人が、やわらかく声をかけてくれる。


 一瞬空気が止まり、


「あ、ごめんね!」


 と慌てた声が返ってくる。


 申し訳なさそうにこちらを見て、何か言おうとしたそのとき、


「えっと……書類ありがとう」


 そう言って仕事のお礼だけを残し、そのまま去っていく。


 その後ろ姿を、少しだけぼんやりと見送る。


 田中さんでもなく、派遣さんでもなく、やっぱり自分の名前は呼ばれなかった。


 そのことに気づいて、少しだけ間があいてから、ふっと力が抜ける。


 隣の席の人と目が合い、小さく笑われると、つられるように少しだけ笑ってしまう。


 さっきまでの気まずさが、少しずつほどけていく。


 キーボードに手を置くと指はいつも通りに動き出し、仕事はちゃんと進んでいく。


 それでもどこか少しだけ、自分の名前があいまいなまま残っている。


 ――まあ、いいか。


 そう思う。


 今日も、ここで働いている。


 それは、変わらない。


 でも、


 会社では、


 名前を「派遣さん」に改名しようかしら。


 そんなことを、少しだけ本気で、少しだけ冗談で思った。

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