第30話 何気ない優しさに気がついた日
今日も頑張る、派遣さん。
午後の少し前、
コーヒーを入れようと思って、給湯室へ向かう。
仕事の合間の、ほんの短い時間。
気持ちを切り替えるための、いつもの動き。
ドアを開けると、
先に誰かがいて、同じようにコーヒーを入れていた。
普段はあまり話したことのない、
違うグループの社員さんだった。
軽く会釈をして、
そのまま隣に立つ。
コーヒーのボタンを押して、
ゆっくり落ちてくる音を聞く。
そのとき、
「鈴木さん、仕事慣れました?」
ふと声をかけられる。
一瞬、
自分のことだと気づくのに少しだけ間があく。
――あ、今の私だ。
そう思って顔を上げる。
「まだ教えていただきながらですが、少しずつ……」
言葉を選びながら、そう答える。
うまく言えているか分からないけれど、
とりあえず、返せたことにほっとする。
それよりも、
胸の奥に残っているのは、
さっきの呼び方だった。
――鈴木さん。
名前で呼ばれたことが、
思っていたよりも、ちゃんと嬉しい。
ふと視線を落として、
その社員さんの胸元に目がいく。
名前と顔写真がついた社員証。
その下で揺れている名前を、
さりげなく目で追う。
――覚えていなくて、ごめんなさい。
心の中で、小さく謝る。
でも、
それを表に出すこともできなくて、
そのまま会話を続ける。
コーヒーが落ちるまでの、ほんの短い時間。
天気の話や、
仕事のちょっとしたことを、いくつかやり取りする。
特別な内容じゃない。
誰にでもあるような、たわいもない話。
それでも、
その時間が、思っていたよりもやわらかい。
コーヒーがカップにたまっていく音と、
短い会話が、静かに重なる。
こんなふうに話すことがあるなんて、
少し前までは思っていなかった。
カップを手に取って、
「ありがとうございます」
小さく言う。
「いえいえ」
軽く返ってくる声も、自然だった。
給湯室を出て、
自分の席へ戻る。
歩きながら、
さっきのやり取りを思い返す。
――名前、覚えてくれてたんだ。
そのことが、
じわっと胸の奥に残っている。
キーボードに手を置く。
指は、いつも通りに動き出す。
同じ仕事をしているはずなのに、
さっきまでとは少しだけ違う。
ほんの少しだけ、
気持ちが軽い。
――まあ、いいか。
小さく思う。
今日も、ここで働いている。
それは、変わらない。
でも、
ほんの少しだけ、
ここにいてもいい気がした。
そんな気持ちが、静かに残っている。




