第18話 名前が少し違う日
今日も頑張る、派遣さん。
午後のフロアは、いつも通りの空気が流れていた。
キーボードの音と、電話の声。その間に、自分の打つ音も混ざっている。
この場所にも、だいぶ慣れてきた気がする。
それでも、変わらないことがひとつある。
名前を呼ばれることが、ほとんどない。
「派遣さん」とか、「ちょっといいですか」とか。
振り向けば自分のことだと分かる呼び方だけが、ここでは普通だった。
だから、
「……すすきさん」
その声が耳に入った瞬間、指の動きが止まる。
――え?
ほんの一拍、遅れて顔を上げる。
部長の視線が、まっすぐこちらに向いていた。
自分に向けられていると分かった瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
立ち上がりながら、頭の中でその名前をなぞる。
――すすきさん?
どこかが、少し違う。
でも、
「これ、お願いできる?」
差し出された資料を受け取りながら、小さくうなずく。
「はい」
そのまま返事をする。
訂正するほどのことでもない気がした。
聞き間違いかもしれないし、今ここで止めるのも違う気がする。
席に戻って資料を広げる。
ページをめくりながら、さっきの呼び方がふっと頭に浮かぶ。
――鈴木なんだけどな。
心の中で小さくつぶやいて、少しだけ苦笑する。
でも、それと同時に、
――名前、呼ばれた。
そんな気持ちも、確かにあった。
そのことに気づいて、ほんの少しだけ胸の奥がやわらぐ。
しばらくして、
「すすきさん、これもお願いできる?」
また同じ声が飛んでくる。
今度ははっきり聞こえた。
――やっぱり。
間違いじゃなかった。
思わず、口元がわずかにゆるむ。
周りに視線を向けると、何人かが下を向いている。
肩がほんの少しだけ揺れているのが見える。
たぶん、気づいている。
でも、誰も何も言わない。
その空気が、少しだけやわらかい。
笑われているわけでも、からかわれているわけでもない。
ただ、そっと流されていく感じ。
「はい」
もう一度、同じように答える。
資料を受け取りながら、
――まあ、いいか。
心の中で、そっと思う。
正しい名前じゃないけれど、
それでも、自分を呼んだ声には変わりない。
キーボードに手を戻す。
指が、いつも通りに動き出す。
少しだけ、さっきより軽い。
――いつかちゃんと、覚えてもらえたらいいな。
そんなことを思いながら、画面に向き直る。
――今日も、ここにいる気がする。




