36.届いた声 ノルン視点
36. 届いた声 ノルン視点
テオの魔法を使っているにも関わらず、宿までの道が、やけに遠く感じる。
胸元の魔石は、まだ熱を抱えたまま消えず、それどころか、走るたびに、焼けるような痛みが皮膚に食い込んでくる。
ルナの魔力が伝わってる証拠だろう。
「ノルン, テオ、右だ! そっちの方が早い」
背後から、アッシュの声が飛ぶ。
隣を走るテオは、真剣な表情を浮かべ、軽やかに角を曲がる。それに続き俺も身体を傾けた。
だが、足元がほんのわずかに乱れた。
何度も使ってきたブースト魔法のはずだ。
身体の運び方も、バランスのとり方も全て分かっている。
それなのに今は、足より先に、身体だけが前へ出ようとする。
「ノルン、珍しいね~」
テオのからかうような声が横から聞こえた。
いつもなら、何か言い返していたかもしれない。だが今は、その返す余裕すらなかった。胸元の魔石が、また強く熱を放つ。
「……っ!」
焼けるような痛みに、奥歯を噛みしめる。
その時、アッシュの低い声が響いた。
「宿が見えたぞ」
視界に捉えたのは、いつも通りの、親父さんの宿だった。
朝となんの変わりはない。
それどころか、荒れた気配や騒ぎすらない。
──この数時間で何があったんだ。
胸元で助けを知らせる魔石と、何事もなかったように佇む宿。
その二つが、あまりにも噛み合わない。
見えない違和感が、脈を速める。
足元の青白い光が空気に溶けきるのも待てず、俺は速度を殺しきれないまま、目の前にある宿の扉へ手を伸ばした。
──バンッ!
勢いよく開いた扉が、壁にぶつかり
ちょうど廊下にいた親父さんが、箒を持ったまま、その場で固まった。
「おいおい、どうした。また扉壊す気か」
「ルナは」
短く問うと、親父さんは不思議そうな顔を浮かべる。
「部屋で休んでるはずだが。3人揃って……って」
俺は親父さんの横をすり抜け、そのまま階段を駆け上がった。
背後で「おいっ」と親父さんの声が聞こえたあと、テオが何かを説明しようとしている。だが、その声はすぐに聞こえなくなった。
ついてきているのは、アッシュの足音だけ。
俺は振り返らず、二階へ向かう。
二階の廊下へ出た瞬間、ひんやりとした空気が皮膚を撫で、俺は反射的に足を止めた。
冷たい……?
廊下の奥。一つの扉だけが、青い膜に覆われ、
その周囲だけ空気が薄く歪んで見える。
「……んだ、これ」
アッシュが低く呟いた。
その直後、もうひとつ、軽い足音が階段を駆け上がってくる。
「……寒っ。なにこれ」
追いついたテオが、廊下の空気に触れた瞬間、顔をしかめた。
「この魔力……障壁だけじゃない……」
肌を撫でる冷気。
胸の奥をざわつかせる、妙な圧。
この圧には、確かな覚えがあった。
初めてルナを見つけた時、湖のほとりに残っていた、
正体の分からない魔力の残滓。
それと、よく似ている。
「……あの森の魔力……?」
俺が呟くと、
テオは右目を押さえたまま、わずかに頷いた。
「いやーでも今回のはやばいかな……」
テオのいつもの軽い調子がなく、
右目にある魔法陣が、薄く点滅している。
テオはゆっくり扉に近づき、指先でそっと触れた。
「これ……この部屋に干渉してる」
「どういうことだ」
「普通の障壁でも、普通の空間魔法でもない」
テオは喉の奥で息を呑んだ。
「障壁で閉じ込めて、空間ごと繋げてる……みたいな感じ」
「そんなことができるのか」
「普通は無理」
テオの声が、低くなる。
「どっちか片方でも高度な魔術だよ。それを同時にって……」
右目の魔法陣が、また薄く瞬いた。
「もういい」
今は説明なんてどうでもよかった。
俺はテオの横を抜け、扉の前に立つ。
そして、右手を鞘にかけたまま、左手の指先で扉に触れた。ぬめるような魔力が、指先に絡みつく。
「落ち着け。この先にヤバいやつがいるのは間違いねぇぞ」
アッシュの声が低く落ちる。
「分かってる」
俺は息を吸い、触れていた扉から指を離した。
そして、半歩下がり、先程まで扉に触れていた手で剣を抜く。
──念じろ。
刃には青い光が走る。
──無事でいてくれ。
俺が斬るのは、その魔力だけだ。
「──セヴァ」
一閃音もなく、扉を覆っていた歪みが裂けた。
次の瞬間、アッシュが肩で扉を押し開ける。
冷たい空気が、一気に廊下へ流れ込んだ。
場違いなほど美しく光る魔力の残滓の奥に、
ベッドの端へ追い詰められたルナがいた。
その顔は完全に血の気を失っており、ルナのすぐ傍には、黒い髪色をした男が立っていた。
男の手には、引きちぎられた青い魔石が握られている。
俺が、ルナに渡したものだ。
切れたチェーンが、男の指の間から垂れ
指の隙間からは、赤い血が幾度も床へ落ち続けている。
「ルナ!」
踏み出しかけた瞬間、男がこちらを振り返った。
「……へぇ」
男の視線が、俺の足元から頭までを舐めるように這う。
「──ッ」
一歩、踏み込むはずだった足が止まった。
喉元に冷たい刃を当てられたような、嫌な錯覚が走る。
「君か……」
初対面のはずなのに
俺を知っているかのような目をして小さく笑った。
「……ルナ?」
男は、その名前を確かめるように呟く。
「へー……そう呼ばれてるんだ」
握られた魔石から、
血が一滴、床へ落ちる。
「俺の知らないところで」
その声は穏やかだった。
けれど、男の目だけが、少しずつ冷えていく。
「新しい名前……か……そかそか
名前まで、もらったんだ」
「ルナから離れろ」
自分の声とは思えないほど、低い声が出た。
男は、ゆっくりと俺を見る。
「離れる?」
おかしそうに、首を傾げる。
「変なこと言うね」
次の瞬間、俺は床を蹴っていた。
だが、刃が届く直前、
男の身体が黒い霧のように揺らいだ。
───斬った感触がない。
剣先が空を裂く。
「……は?」
男は、半歩後ろに立っていた。
──何が起きた
避けたわけじゃない。
後ろへ跳んだわけでもない。
ただ、そこにいたはずの男が、
次の瞬間には別の場所にいる。
魔法か?
「ノルン、追うな!」
テオの声が飛ぶ。
「そいつ、移動してるんじゃない。空間ごとずらしてる!」
男は、優しそうに笑った。
「怖い顔」
背後から声がした。
振り返るより早く、アッシュの巨大な盾が俺の横を抜けた。
「ノルン、下がれ!」
重い衝撃音が部屋に響く。
だが、男はそこにいなかった。
いつの間にか窓際に立ち、相変わらず優しそうに笑っている。
「邪魔だなぁ」
その視線が、俺でもアッシュでもなく、ふたたびルナへ向いた。
「せっかく、また会えたのに」
ルナの肩が、激しく震える。
俺は反射的に、彼女の視界を遮るように前へ出て、
剣を構えた。
男の目が、わずかに細くなる。
「……きみのそういう顔、うざいな」
「ルナに近づくな」
「近づくな?」
男は小さく笑った。
「マリをここに呼んだのは、俺だよ」
部屋の空気が、完全に凍りついた。
──呼んだ?
意味が分からない。
けれど、背後でルナの呼吸が乱れていく。
その反応だけで、
あの男の言葉が嘘では無いと言うてるようなものだ。
ふと、以前ルナが話していた夢のことが頭をよぎった。
俺と同じ黒髪のやつに殺されそうになったということ。
あれは夢ではなかったのか?
「俺が呼んだ。俺のために。二人だけの世界を作るためにね」
男の足元に、底なしの黒い影が広がっていく。
テオの右目に、淡い青白い魔法陣が浮かび上がった。
「逃がすな」
「無茶言うな。俺じゃ無理!!!」
男は笑ったまま、血に濡れた指の間で輝く青い魔石を見下ろした。
「今日は邪魔が入ったから帰るね」
「待て!」
男の足元から、黒い影が這い上がる。
足首を、膝を、腰を。
ゆっくりと、その身体を呑み込んでいく。
「また迎えに来るよ、マリ」
───ヒューヒュー
背後で、ルナの呼吸が乱れていた。
うまく息が吸えていない。
苦しそうな呼吸だけが、何度も繰り返される。
男は最後に、
俺を値踏みするような目で見た。
「次は、君たちがいない時に」
──黒い影が、爆発するように弾けた。
冷気が消える。
部屋に残されたのは、生々しい血の匂いと、床に点々と落ちた赤い血痕、そして引きちぎられたチェーンの欠片だけだった。
誰も、すぐには動けなかった。
黒い影が消えた部屋に、
荒い呼吸の音だけが残る。
数秒遅れて、やっと身体が動いた。
「……ルナ」
名前を呼びながら、俺はゆっくりと振り返ると
ルナはベッドの端に座り込んだまま、両手で首元を押さえていた。
小さく震えている。
「……ルナ」
近づきたい。
けれど、俺は踏み出せなかった。
今、触れていいのか分からない。また怖がらせるかもしれない。そう躊躇った、その時だった。
「……ノルン」
掠れた声が、俺を呼んだ。
次の瞬間、
震える指が、俺の袖をゆっくりと掴んだ。
弱くて、消え入りそうな力だった。
けれど、確かに。
ルナの方から、俺を掴んでいた。
「……届いた」
彼女は泣きそうな顔で、
それでも、まっすぐに俺を見ていた。
涙で濡れた瞳が、わずかに細まる。
震える唇に、小さな安堵の笑みが浮かんだ。
「ちゃんと、届いた……」
胸の奥で、何かが強く締めつけられる。
伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。
ただ、彼女が必死に掴んでいる袖は、もう少しこのままで。
「届いたよルナ」
そう答えるのが、やっとだった。
「遅くなって、悪い」




