35 動き始めた世界
声が出ない。
──ミシ。
無意識に後ずさると、ベッドが軋んだ。
後ろに逃げ場なんて、あるわけがない。
「無視ー? 会えて嬉しいのにさ」
目の前の男は、少し困ったように笑った。
まるで、私が悪いとでも言うかのように。
──ギシ。
男が、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
……ドクッドクッドクッ
あの男の足音よりも早く、
自分の心臓の音が、私を追い詰めていく。
「相変わらずだね。そうやって黙っちゃって」
「……っ」
あの夢と同じで、私の足は震えて動かなかった。
ただ、夢と違うのは、
懐かしさを感じるこの匂いが、鼻を掠めること。
──やっぱり、彼なんだ。
「ねぇ……マリ」
もう、手の届く距離にいた。
「この部屋、男の匂いが少しすんだけど?」
その瞬間、一気に声のトーンが下がった。
先程までの甘ったるい声は消え、
彼の手が私の顎を強く掴む。
「……っ、いた……い」
「せっかく、二人だけの世界を作るために準備してるのにさ」
彼は、笑っているはずなのに、
目だけがまったく笑っていなかった。
「こっちは、やっと呼び出せたのに」
──え。
「……よび……だせた?」
「そう」
彼の言葉が、うまく頭に入ってこなかった。
いや、本当は最初から分かっていたはずだったの。
あれは夢じゃないってこと。
でも、悪い夢だったらいいのにって……
あぁ……。
私は、最初からこの人の思惑の中にいたんだ。
「俺のものにならないなら、死ねばいいって思ってた」
彼は、私の顎を掴んだまま、優しく笑った。
「でも、また会えたね」
優しい笑みのはずなのに、
相変わらず手の力は容赦がない。
角度のせいか。
……恐怖のせいか。
息が、しづらい。
……落ち着け。
また魔力が暴走したら、
部屋が壊れるどころじゃ済まない。
今は、ノルンたちもいない。
止めてくれる人もいない。
怖い。
怖いけど……
恐怖に震える指先を、
少しずつ、少しずつ動かしていた。
顎を掴まれたまま、
私は彼から目を離せない。
昔みたいに、
怖くて動けないわけじゃない。
まだ大丈夫。
気づかれないように。
お願い。
気づかないで。
足は震えている。
息も浅い。
それでも、指先だけは──
少しずつ、胸元へ近づいていく。
服の布の上を、ゆっくりと滑らせる。
……あと少し。
「……マリ?」
──バレた……?
彼の声が耳元に落ちて、心臓が跳ねる。
反射的に、指先が止まった。
けれど、彼の目はまだ私を見つめたまま、
うっすらと笑みを浮かべている。
きっと、私の反応を楽しんでいるのだろう。
そう思うのには十分だった。
彼の中の私は、
きっとあの頃のままで止まっている。
「愛しているよ」
甘い言葉を囁きながら、彼は私の顎を掴んだまま、
もう片方の指先で、私の髪をゆっくりと撫でる。
愛おしそうに見つめるその視線が、
私の顔に向いているあいだに。
私は唇を噛みしめながら、また少しずつ、指先を動かした。
やっと、胸元のネックレスの金具に触れる。
──あった。
ゆっくりとチェーンを手繰り寄せていく。
青い魔石。
早く……。
触れなきゃ。
けれど、焦って動けば、きっと気づかれる。
だから、ゆっくり。ゆっくりと。
ひんやりとした冷たさが、
指先に伝わる。
──もし何かあれば、ここに魔力を流し込め。
ノルンの声が、頭の奥で蘇る。
大丈夫。
ひとりじゃない。
そう思った瞬間、
ほんのわずかに呼吸が楽になるのも束の間
「なに?」
彼の指が、私の顎をさらに強く持ち上げる。
「今、誰のこと考えたの?」
大きく心臓が揺れる。
声には出していないはずなのに
さっき浮かべた一瞬の安心さえも見逃してくれない。
「……っ」
「ねぇ、マリ」
彼は優しく笑ったまま、私の顔を覗き込む。
「俺以外のこと、考えないで」
彼の言葉が呪いのように全身を這う。
でも、指先は離さなかった。
青い魔石に触れたまま、
ほんの少しだけ、そこへ意識を集中させて魔力を流す。
内側から恐怖がまじる真っ黒な魔力がそこにあった。
──だめ。落ち着いて。
届けるために。
ノルン...…。
そう思った瞬間、脳裏に、あの湖が浮かんだ。
私がこの世界で見た最初の景色
白い光に包まれた湖、
振り返った先に深い緑の瞳をした青年。
なんで今、ノルンのことばかり考えてるのだろ
けれど、あの時。
あの人と同じ黒い髪をしているのに、
私はノルンを、綺麗だと思ってしまった。
青い魔石が、指先で、かすかに震え
澄んだ青い光を放ちはじめた。
「──何、してるの?」
「あっ、」
次の瞬間、 魔石に触れていた私の手首が、
乱暴に掴み上げられた。
髪を撫でていたその手が、もの凄い速度で私の手首を捕らえたのだ。その拍子に指先がチェーンから離れ、 服の内側に隠れていたネックレスが、 胸元から引きずり出される。
細いチェーンの先で、おぞましい黒とは違う、
深い青い光を放ちながら、魔石が小さく揺れていた。
「……なんこれ?」
掴まれた手は、無意識に揺れる。
意識的に止められるものでなく、
やばいという感情が勝っていた。
「誰に貰ったの?この部屋のやつ?
あ〜目離した隙にもう次かぁー」
彼は、私の顎を掴んでいた方の手を無造作に離すと、そのまま私の首元のチェーンへと手を伸ばしてきた。
「痛っ」
次の瞬間、首元に鋭い衝撃が走る。
顎から移動した手によって、ネックレスが容赦なく引きちぎられたのだ。
あまりの痛さに、私は瞬時に自由になった両手で自分の首元を強く押さえる。
ヒリヒリとした熱い痛みが広がる。
引きちぎられたチェーンの先で、彼の手に握られた青い魔石は、まるで私の必死の祈りを閉じ込めたまま、掌の中で抗うかのように光を放ち続けていた。
「俺以外にマリを触らせていいやつなんて、いるわけないのにさ」
彼の腕には、青い血管が浮き上がり、
魔石を握る手が、かすかに震えている。
そして、指の隙間から、
赤い雫がひとつ、またひとつと伝い落ち
強く握りしめられた青い魔石に、 血が滲んでいく。
それでも、あの魔石は、
彼の掌の中で、光っている。
それが、唯一の希望だった。
お願い。
届いていて。
──ノルン、助けて。
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▶△▶△ノルン視点
同刻、ギルド長室。
「……ルナ?」
こないだの解剖した魔獣の結果を聞いていた瞬間、
胸元に、焼けるような鋭い熱を感じて息をのんだ。
服越しから一気に溢れ出したのは、青い光だった。
「ノルン、今の光は──」
アッシュの声を聞くまでもなく、
俺はすでに剣の柄を握っていた。
「あぁ、急いで戻るぞ。ルナが危ない」
「……ドライブブーストっ!」
テオの短い詠唱と同時に、
三人の足元に青い魔法陣が走る。
「ゴーラスさんごめん」
「おい。こんなとこで……」
ゴーラスが制止の声を上げるよりも早く、
俺はギルド長室の扉を勢いよく開け、廊下へ飛び出した。
背後から、二人の声が一拍遅れて聞こえる。
「スピード上げるだけだから! 安心して、ゴーラスさん!」
「また伺う。途中ですまん」
次の瞬間、三人の身体が
青白い光を身に纏い加速する。
一秒でも早く、ルナのもとへ。




