37.怖さと光
あの人が去ったあとも、
震えは止まらなかった。
怖い。
息が苦しい。
それなのに、
無意識に手が伸びていた。
今までなら、
怯えていたはずの黒い髪。
あの人と同じ色の髪をしたノルンに、
私は縋るように袖を掴んでいた。
「……届いた」
声は、ほとんど息みたいだった。
怖くない。
この人は、怖くない。
夢じゃない。
ちゃんと、来てくれた。
「ちゃんと、届いた……」
視界の隅で、
ノルンの手が止まった。
伸ばしかけた手を、
ゆっくりと下ろしていく。
「届いたよ……ルナ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で張り詰めていたものが切れた。
震える足に、力が入らない。
それでも私は、
彼の袖を掴んだまま、必死に身体を起こした。
近づきたい。
この人のそばにいたい。
そう思った時には、額をノルンの胸元に押しつけていた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
怖かった。
怖かった。
でも、今だけは。
この黒い髪は、怖くなかった。
鼻先をかすめたのは、かすかな汗の匂い。
ノルンは、あまり表情に出さないけど、
どれだけ急いで来てくれたのかは、
その匂いだけで分かった。
「ルナぁ、俺には!?」
わざとらしく明るいテオの声に、
止まっていた時間が少しだけ動いた。
そこでようやく、意識が現実に引き戻される。
「……っ」
私は慌てて、
ノルンの胸元から身を離し俯いた。
──頬が熱い。
「ご、ごめ……」
最後まで言えなかった。
その時、一瞬見えたノルンの表情は、
ほんの少しだけ和らいで見えた。
「で、お二人さん~」
テオの声の方へ顔を上げる。
そこにいた彼は、
いつものように笑う素振りはなく、
今まで見たことがないほど真剣な表情を浮かべていた。
「いちゃつきはこれくらいにしてほしいかな。今、けっこう最悪な状況なんだよね」
その言葉に、
私は辺りを見渡した。
少し倒れた棚。
床に残る数滴の血。
けれど、
思っていたほど部屋は荒れていない。
そのせいか、
テオの言葉の意味がうまく飲み込めなかった。
「これを見て」
テオが指さしたのは、
血の跡のすぐそばだった。
赤く染まった床の上に、
ほんのわずかに青い光が浮かんでいる。
目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、
粉のように細かな光。
それは時間が経っているはずなのに、
そこへ残り続けていた。
「あの男の魔術の跡だけならよかった」
テオの声は低かった。
「どういうことだ」
ノルンが問う。
テオは青い光から目を離さない。
「時間が経っても消えないって、どういうことだと思う?」
言うている意味が、
私には理解できなかった。
ただ、消えないという言葉だけが、
胸の奥に重く沈んでいく。
そして、あの人の最後の言葉が頭を巡る。
──また迎えに来るよ、マリ。
「……っ」
息が詰まる。
ひと時の沈黙が落ちた。
テオは床に散った青い光を見つめたまま、小さく息を吐き、
右目の魔法陣が淡く揺れた。
「恐らくあの男はルナの居場所を追える可能性がある」
一気に部屋の空気が張り詰める。
「……前置きはいい。はっきり言え」
アッシュの低い声が狭い部屋に響いた。
テオは静かに口を開く。
「確か……ルナをこの世界へ召喚したと言うてたよね?
それが答えなんだ。きっとあの男は、ルナの魔力を覚えてる」
誰も言葉を発さず、テオの言葉静かに待つ
その空気感は重たいまま、テオは苦しそうに眉を寄せる。
「だからルナの場所は筒抜けってこと」
その先は、聞かなくても分かった。
あの男は、最初から私の居場所を知っていた
だから。
──やっと一人になったから会いに来れた。
あの言葉は、
偶然なんかじゃなかった。
背筋を、
冷たいものがゆっくりと這い上がっていく。
もし本当に居場所を知られているのなら。
私は、もう二度と逃げられない。
そう考えた、その時だった。
ぽん。
不意に頭へ手が乗る。
「大丈夫」
たった一言。
それだけなのに、
さっきまで震えていた心が、
少しだけ落ち着いていくのを感じた。




