32.夢と今の私
「お前は、なんで俺を一人にする」
泣きわめく男が、私に覆いかぶさって
何かが、ぼたぼたと頬に落ちる。
痛みはない。
でも、息ができなかった。
首に食い込む指の感触だけが、やけにはっきりしていて、視界がだんだん滲んでいく。
私の涙なのか。目の前の男のものなのか。
もう、分からない。
ぼやけた顔が、ゆっくりと近づいてくる。
──逃げなきゃ。
そう思うのに、身体は動かない。
音は次第に遠ざかり、耳元に狂気じみた声が触れた。
「俺だけのものじゃないなら、死ねばいい」
その言葉と同時に、青い光が視界を覆った。
男の姿が、光の中に溶けて消える。
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「ルナ、大丈夫か……」
揺れる光の向こうで、聞き慣れた声がした。
低くて、静かで……さっきまで耳元に触れていたあの怖い声とは、全然違うのに、すぐには返事ができない私がいた。
視界の端に、黒い髪が揺れる。
さっきまで私の首を絞めていた男と同じ髪色。
ただそれだけの共通点に、一瞬だけ息が詰まる。
けれど、次に込み上げてきたのは恐怖ではなかった。
……夢だったんだ。
そう分かった途端、強張っていた身体から、力がすっと抜けていく。
「……ノルン。大丈夫だよ。少し、怖い夢を見ただけ」
自分でも分かるくらい、声がぎこちなくなる。
彼は一瞬、意外そうな顔を浮かべた。
「正直……また怯えられると思ってたから、良かった」
そう言って、ノルンは少しだけ息を吐いて続ける。
「テオは今寝てる。本当はテオがそばにいた方がいいと思ったんだが……心配だったんだ」
なんでそんな顔をするんだろ……
そう言わせてるのは恐らく私のせい……。
──違うのに……
「……逆に、ノルンでよかった」
「……え?」
思っていた答えとは違ったのだろう。
ノルンが、少しだけ目を見開く。
「確かに前は、少し怖かった。ノルンの黒髪が」
勇気を振り絞った声とは裏腹に、
私の指先は小さく震えていた。
その震えに気づいたのか、ゆっくりとこちらへ伸びかけていたノルンの手が、途中でピタリと止まる。
行き場をなくした彼の手が、目の前で不器用に彷徨っていた。
そんな手を見つめ、私はゆっくりと顔を上げた。
自然と彼と視線が絡む。ノルンは何も言わず、ただ静かに私を見つめてくれていた。
「夢の中でね」
「私、殺されそうになってたの……いや、本当に死んだのかも……」
重い話のはずなのに、どこか他人事のようで、乾いた笑いがこぼれた。
そんな私の自嘲を見て、ノルンの瞳がわずかに揺れる。
「その人は、黒い髪だった。ノルンと同じ色。……でもね、怖いってだけじゃなくて……」
私は膝の上で、指をぎゅっと握りしめた。
「彼は、泣いてたの。すごく、苦しそうに」
自分でも、どうしてそんなことを口にしたのか分からなかった。視界が滲み、目元だけがじわじわと熱くなっていく。
「私を傷つけてるはずなのに……泣いてた」
あの日の記憶が、すべて本当なのかも分からない。
今さら、あの人のことを好きだなんて思っていない。怖い。憎い。嫌い。
そう言い切りたい。
けれど、その言葉さえ、本当に私の本心なのか分からなかった。
優しかった日を覚えている。
離れたかったのに、離れられなかった。変わってくれるかもしれないと、どこかで縋っていた。
そんな自分が、何より嫌いだった。
記憶の中の彼は、優しくて、怖くて、泣いていて。
全部がぐちゃぐちゃに混ざって、上手く言葉にまとまらない。
そもそも全部、ただの夢の話なのかもしれない。
けれど、どうしてもそうは思えない自分がいた。
「でも、今日は……あの人じゃなかった」
ちゃんと、彼の目を見よう。
「目が覚めた時に、そこにいてくれたのは……ノルンだった」
膝の上で握っていた指を、少しだけ緩める。
そして、今度は私の方から、宙で止まっていた彼の手をそっと握った。
「だから……怖くなかった」
「一瞬、重なったの。黒い髪を見て、怯えてた。でも……ノルンの顔を見て、ちゃんと現実に戻ってこれた」
ここが現実だと、今だけは信じたかった。
そこまで言って、私は小さく息を吸い込む。
「怖いのは、ノルンじゃない」
声はまだ震えていた。それでも、今度は逃げずに真っ直ぐ伝えた。
「怖い夢から覚めた今だから、ちゃんと伝えたかったの」
少しの間、重い沈黙が落ちた。
ノルンは、視線を落とし、
握られた自分の手を見つめていた。
その指先に、ほんの少しだけ力が入る。
けれど、握り返すことはしなかった。
ただ、私が離したくなった時に離せるように、
静かにそこにいてくれたのかもしれない。
やがて、ノルンが小さく息を吐く。
「話してくれて……ありがとう」
あの日、洗い場でした約束に。
少しは、近づけただろうか。




