20.指先から溶ける心
ノルンの声を聞くたび、
いつも同じ感覚に襲われる。
思考も、呼吸も、動きも。
すべてがその場に縫い付けられたような、あの感覚。
恐る恐る振り向くと、
そこにいたのは、やっぱりノルンだった。
さっきまで頭の中で用意していた言い訳も、
取り繕うはずだった表情も、
彼を見た瞬間に全部飛んでいく。
さっきまで自分に言い聞かせていた
「大丈夫」は、どこへ行ってしまったのだろう。
整理できない感情を抱えたまま、
私とノルンの視線がぶつかり、
ノルンはばつが悪そうに少しだけ目を逸らして、
困ったように笑う。
「おはよ。早いね」
その穏やかな声が、余計に胸に刺さった。
「……おはよ」
──今はだめだ。
私は短く返すと、
まだ少し腫れた目を見られないように
すぐ視線を足元へ落とし、ノルンから逃げるように、
弾かれたような足取りで横を通り過ぎようとする。
けれど、すれ違った瞬間、
服の袖が後ろからそっと引かれた。
「……ルナ、待って」
食堂から漏れるテオの笑い声が、
遠くの方でかすかに聞こえる。
それなのに、この薄暗い水場の入り口だけは、
別の時間みたいに静まり返っていた。
袖を引かれた感触だけが、
やけにはっきり残る。
そして、ノルンの手は離れた。
まるで、触れてはいけないものに触れてしまったと
気づいたかのように。
ふっと軽くなった袖の感覚に驚いて顔を上げると、
不意にノルンと視線が絡まる。
私が思っていたよりずっと、
ノルンは戸惑いに満ちた瞳をしていた。
「ごめん……」
消え入りそうな声で、
ノルンはそれだけを言った。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
私の泣き腫らした目が、やっぱりばれたのかもしれない。
それとも、引き止めたことを後悔したのだろうか。
そのままノルンは背を向けて、
逃げるように水場から去ろうとした。
──だめ。
「っ、待って!!」
絞り出したような声が、静かな空間に響き、
思った以上に大きな声で、自分でも驚いた。
その声に、ノルンは背中を向けたまま足を止めた。
──あの帰り道と同じ。
ただ見ているだけでは、どうしても嫌だった。
──逃げるのは、やめる。
「……いつか、いつかさ、ちゃんとノルンと笑いあいたい」
今の私に言えたのは、それが精一杯だった。
それでも昨日、何も言えなかった私とは少しだけ違う。
──きっと。
ノルンは、体は前に向けたまま、
首だけゆっくり振り向いた。
「待ってる。練習がんばれよ」
初めて、あんなふうに笑うノルンを見た気がした。
少なくとも、私がこれまで見てきた
あの苦しそうな表情ではなかった。
その事実に、視界がまたじわりと熱くなる。
ノルンはそのまま、今度は迷いのない足取りで廊下の向こうへと消えていった。
残されたのは、冷たい水場の空気と、
私の胸に残るほんのり温かい余韻。
(……笑いあいたい、なんて。私、何言ってんだろ)
彼がいなくなってから、急激に羞恥心が込み上げてくる。
顔が赤く染まり、私はたまらず両手で頬を押さえた。
けれど、今朝までの泥のような重苦しさは、
不思議と消えていた。
「練習、か……」
私は小さく呟いて、
足元に落ちていた視線をしっかりと上げる。
ノルンがあんな顔で笑ってくれた。
それだけで、今の私には十分すぎた。
私は、湿った空気を胸いっぱいに吸い込み、
昨日の自分を置き去りにするように一歩を踏み出した。




