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愛を乞う少女は、漆黒の泥で世界を壊す  作者: ちぇるしー


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20/25

20.指先から溶ける心

ノルンの声を聞くたび、

いつも同じ感覚に襲われる。


思考も、呼吸も、動きも。

すべてがその場に縫い付けられたような、あの感覚。


恐る恐る振り向くと、

そこにいたのは、やっぱりノルンだった。


さっきまで頭の中で用意していた言い訳も、

取り繕うはずだった表情も、

彼を見た瞬間に全部飛んでいく。


さっきまで自分に言い聞かせていた

「大丈夫」は、どこへ行ってしまったのだろう。


整理できない感情を抱えたまま、

私とノルンの視線がぶつかり、

ノルンはばつが悪そうに少しだけ目を逸らして、

困ったように笑う。


「おはよ。早いね」


その穏やかな声が、余計に胸に刺さった。


「……おはよ」


──今はだめだ。


私は短く返すと、

まだ少し腫れた目を見られないように

すぐ視線を足元へ落とし、ノルンから逃げるように、

弾かれたような足取りで横を通り過ぎようとする。


けれど、すれ違った瞬間、

服の袖が後ろからそっと引かれた。


「……ルナ、待って」


食堂から漏れるテオの笑い声が、

遠くの方でかすかに聞こえる。

それなのに、この薄暗い水場の入り口だけは、

別の時間みたいに静まり返っていた。


袖を引かれた感触だけが、

やけにはっきり残る。


そして、ノルンの手は離れた。

まるで、触れてはいけないものに触れてしまったと

気づいたかのように。


ふっと軽くなった袖の感覚に驚いて顔を上げると、

不意にノルンと視線が絡まる。


私が思っていたよりずっと、

ノルンは戸惑いに満ちた瞳をしていた。


「ごめん……」


消え入りそうな声で、

ノルンはそれだけを言った。


そんな顔をさせたいわけじゃない。

私の泣き腫らした目が、やっぱりばれたのかもしれない。

それとも、引き止めたことを後悔したのだろうか。


そのままノルンは背を向けて、

逃げるように水場から去ろうとした。


──だめ。


「っ、待って!!」


絞り出したような声が、静かな空間に響き、

思った以上に大きな声で、自分でも驚いた。


その声に、ノルンは背中を向けたまま足を止めた。


──あの帰り道と同じ。


ただ見ているだけでは、どうしても嫌だった。


──逃げるのは、やめる。


「……いつか、いつかさ、ちゃんとノルンと笑いあいたい」


今の私に言えたのは、それが精一杯だった。

それでも昨日、何も言えなかった私とは少しだけ違う。


──きっと。


ノルンは、体は前に向けたまま、

首だけゆっくり振り向いた。


「待ってる。練習がんばれよ」



初めて、あんなふうに笑うノルンを見た気がした。

少なくとも、私がこれまで見てきた

あの苦しそうな表情ではなかった。

その事実に、視界がまたじわりと熱くなる。


ノルンはそのまま、今度は迷いのない足取りで廊下の向こうへと消えていった。

残されたのは、冷たい水場の空気と、

私の胸に残るほんのり温かい余韻。


(……笑いあいたい、なんて。私、何言ってんだろ)


彼がいなくなってから、急激に羞恥心が込み上げてくる。

顔が赤く染まり、私はたまらず両手で頬を押さえた。

けれど、今朝までの泥のような重苦しさは、

不思議と消えていた。


「練習、か……」


私は小さく呟いて、

足元に落ちていた視線をしっかりと上げる。


ノルンがあんな顔で笑ってくれた。

それだけで、今の私には十分すぎた。

私は、湿った空気を胸いっぱいに吸い込み、

昨日の自分を置き去りにするように一歩を踏み出した。



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