19.昨日と違う朝。
昨日とは少し違っていた。
やっと現実と向き合う覚悟ができたのだ。
──これもテオのおかげかもしれない。
私は今、古びたドレッサーの前に座り、
鏡の中に映る自分をまじまじと見つめていた。
昨日は、自分の姿を見る勇気さえなかった。
ただ顔を洗うのが精一杯で、
身だしなみを整える気力なんて、少しも残っていなかった。
けれど、今日はちがう。
「……変わってない。」
鏡に映るのは見慣れた私の顔だった。
ひとつわかったのは、転生したわけではなく、
私は私のまま、異世界に飛ばされたということ。
ただ、どうしても腑に落ちないことがあった。
最初に目覚めた時に感じた違和感と同じ。
そっと頬に手を当てた。
殴られ、腫れ上がり、熱を持っていたはずの場所。
何度も浴びせられた罵声とともに刻まれたはずの痛みが、
どこにもなく、痣ひとつない滑らかな肌が指先に触れた。
鏡の中の私は、
まるで何事もなかったかのように綺麗だった。
(どうして……? 怪我が、ひとつも残ってない)
今の私に残る現実は、
唯一、昨日の泣き腫らした目だけ。
「顔を洗わなきゃ」
ぽつりとそう呟いて、私は鏡から目を逸らすように立ち上がった。昨日よりは軽く感じる足取りで、扉へと向かう。
扉を開けると、廊下の空気は少し冷たかった。
昨日テオに教えてもらった水場は、
この静かな廊下にはなく、1階に行く必要があった。
そして、階下からは
かすかに人の気配だけが立ち上っていた。
──できれば、ノルンには会いたくない。
軋む階段を一段一段進めながら、
私は必死に顔をふせていた。
この泣き腫らした目を見られるのが嫌だった。
私にとっては、泣き明かしたこの赤い目は、
ただの感情の整理にしかすぎない。
けれど、ノルンにとってはきっと違う。
きっとまた、自分のせいだと思ってしまう。
一階に降り立ち、壁伝いに水場へと急ぐ。
幸い、食堂の方はテオたちの話し声で賑やかで、
こちらに気づく様子はない。
薄暗い水場に辿り着き、
私は蛇口の付け根にはめ込まれた小さな青い石に触れた。
カチリ、と硬い音がして、魔石の奥に淡い光が灯る。
直後、ゴボゴボと音を鳴らしながら、
透き通った水が勢いよく流れ出した。
この世界には「魔石」というものが存在しており、
昨日、テオがやり方を教えてくれたのだ。
私の世界なら、こういう便利なものは設備や家電が支えているのが当たり前だった。
けれど、この世界では、魔力を使うことが普通なのかもしれない。
前に魔法を知らない私に
テオが驚いた理由もそこで理解ができた。
蛇口から流れる水を両手ですくい上げ、
熱を持ったまぶたに押し当てた。
「……っ」
刺すような水の冷たさが、肌の奥まで浸透していく。
何度も、何度も、感覚がなくなるまで顔を洗った。
──彼にこれ以上傷ついて欲しくない。
その気持ちが私の思考をいっぱいにしていた。
だから、必死に、氷のような水でまぶたを冷やし続けた。
やがて蛇口の魔石が静かに光を失い、水の音が止まる。
静寂が戻った水場で、私は手近なタオルで顔を拭い、
一度だけ深く呼吸をした。
この泣き腫らした赤い目は、
今の私に残された、唯一の現実の欠片だ。
けれど、これを見せるわけにはいかない。
「……よし、大丈夫」
赤みは少し引いていた。
もし何か言われたら、眠れなかったとでも言えばいい。
何度も、何度も自分に言い聞かせていた。
けれど、心の準備ができるよりもずっと早く、
背後から不意に声が落ちてきた
「……るな?」




