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第23話 見られる子、見る子

人は、赤子をよく見る。


 顔立ちがどうだ。

 誰に似ている。

 泣き方が強い、眠りが深い、手足がしっかりしている。

 大人たちは、まだ何者でもない幼子に向かって、勝手に未来の徴を探したがる。


 けれど、その逆を思う者は少ない。


 赤子もまた、人を見ているのではないか――と。


 もちろん、梵天丸が大人のように何もかも分かっているはずはない。

 まだ言葉も持たず、歩くこともできず、ただ乳を飲み、眠り、時に泣くばかりの子だ。

 それでも、喜多はこのところ強く感じていた。


 この子は、ただ抱かれるばかりの子ではない。

 抱かれながら、聞いている。

 見られながら、見ている。


 米沢城の朝は、やはり白かった。


 雪は夜のうちにまた少し積もり、庭の枝に新しい重みを載せている。障子越しに届く光はやわらかいが冷たく、火鉢の熱の届く内側と、その外とで世界が二つに分かれているようだった。


 梵天丸は機嫌よく目を覚ましていた。


 泣いてはいない。

 白い布の中で、指を小さく開いたり閉じたりしながら、どこを見るでもなく目を動かしている。

 だが、その「どこを見るでもなく」が、喜多にはいつも少し引っかかる。


 本当に、どこも見ていないのか。

 それとも、こちらがそう思っているだけで、実はあの小さな視線なりに、何かを拾っているのか。


 喜多は梵天丸を抱き上げた。


 腕に乗る重さは、少しだけ前よりも“生きた重み”を増している。

 もちろん、ほんのわずかな違いにすぎぬ。

 だが、毎日抱いている者には、そのわずかが分かる。

 首の力の入り方。

 身じろぎの間。

 抱き上げたとき、どちらへ頭を向けたがるか。

 赤子は日に日に同じではない。


 今日の梵天丸は、喜多の胸元へすぐには寄ってこなかった。

 少しだけ体をひねり、部屋の入口のほうへ顔を向けた。


 そこには、湯を替えに来たおきぬがいる。


「……またですか」


 おきぬは小さく笑ったような、息を呑んだような顔をした。


「何が」


 喜多が問うと、おきぬは湯の入った椀を慎重に置きながら答えた。


「わたくしが入ると、よくこちらを向かれます」


 喜多はそれを聞き、腕の中の梵天丸を見下ろした。


 たしかにそういうことはあった。

 おきぬに限らぬ。

 授乳役の女房が近づけば、その衣擦れの音のほうへ。

 年長の侍女が入れば、その足の止まり方のほうへ。

 喜多自身が抱き方を変えると、その動きに応じて目の向きも変わる。


 それだけなら、赤子の自然な反応とも言える。


 だが、その反応の速さがときどき妙だった。

 物音がしてからではなく、音が“来る”前の気配に、先に身じろぎするように見えることがある。


「気のせいかもしれませぬが」


 おきぬが控えめに言う。


「この子は、人によって少し違う顔をなさる気がいたします」


「違う顔」


「はい。授乳役の方が抱かれるとき、喜多様が抱かれるとき、義姫様のおそばにあるとき……ほんの少しずつ」


 喜多は、その言葉を軽くは流さなかった。


 若い侍女の勘というものは、ときに曖昧で、ときにひどく正確だ。

 言葉にできぬ違いを、まず肌で拾うからである。


 たとえば、授乳役の女房に抱かれるときの梵天丸は、どこか身体の力を預けるのが早い。乳の匂いと胸のぬくもりが、赤子にとって分かりやすい安心なのだろう。

 喜多の腕の中では、落ち着き方が違う。すぐに眠りへ落ちるのではなく、一度だけ周囲を確かめるような間がある。

 義姫の腕にあるときは、その日の機嫌にもよるが、時にひどく静かで、時に妙に敏くなる。


 人が違えば、抱き方も匂いも声の響きも違う。

 そう考えれば、それまでだ。


 それでも喜多は、梵天丸の目がただ漫然と動いているだけではないように感じていた。


 その日の午後、義姫が梵天丸を抱く時間があった。


 体調はまだ揺れる。

 長く抱き続けることはできぬ。

 けれど、義姫は日に一度は自分の腕へ梵天丸を収めようとする。母として当然のことでもあり、また自らに言い聞かせるための所作でもあるように見えた。


 喜多は、梵天丸を渡した。


 義姫は受け取ると、まずその顔を見た。

 近すぎるほど近く、自分の胸元へ引き寄せ、呼吸の当たる位置でしばらく目を離さぬ。

 その眼差しには、母の情と、それだけでは済まぬ緊張がいつも混ざっている。


 梵天丸は義姫の腕の中で、今日はよく落ち着いていた。


 少しだけ手を動かし、義姫の衣の端へ指を触れ、それから静かになる。

 義姫はその小さな仕草に、見ていて分かるほど胸をゆるめた。


「今日は、ようございますね」


 年長の侍女が低く言う。


「ええ」


 義姫は目を離さぬまま答える。


「……よく、見ているわ」


 その言葉は、誰に向けたものともつかなかった。


 喜多はすぐに反応しなかった。

 だが義姫の視線の先が、梵天丸の目にあるのは分かる。


「さっきまで眠たげでしたのに、いまは私の顔ばかり見ている」


 義姫の声は、ひどく静かだった。


 母としては嬉しいのだろう。

 けれど、それだけではない。

 見られている、と感じたとき、人は少しだけ落ち着かなくなる。

 相手が赤子であってもだ。


 喜多は答える。


「人の顔は、赤子にとって一番変わるものにございます」


「それだけかしら」


 義姫は、梵天丸の目を見たまま言った。


「ただ光るものや、動くものを見るのとは違う気がするわ」


 部屋の空気が、少しだけ張る。


 喜多もまた、そう思っているからだ。

 だがそれを、どこまで言葉にしてよいかは分からない。


「まだ、気配を拾っておるだけかもしれませぬ」


 喜多は慎重に言う。


「かもしれぬ、ね」


 義姫はそれ以上追わなかった。


 梵天丸は、義姫の顔を見ているようでいて、次の瞬間にはその向こう――障子の光の薄いところへ目を向けた。

 その動きが、あまりに滑らかだったので、おきぬはまた胸の奥で小さく息を呑む。


 この子は、人に見られる子だ。

 そして同時に、人を見ている子でもある。


 その思いは、もう喜多の中だけのものではなくなりつつあった。


 夕方近く、輝宗もまた短く奥へ顔を出した。


 表の用の途中であるらしく、長居はしない。だが、梵天丸が起きていると知ると、ほんの少し歩みを変えた。父である。


「どうだ」


「今日はようございます」


 喜多が答える。


 輝宗は、義姫の腕の中の梵天丸を見た。

 梵天丸は父が近づいたことに気づいたのか、わずかに目を動かした。

 まだ笑うでもない。

 泣くでもない。

 ただ、その気配を拾ったように視線が寄る。


「……やはり」


 輝宗が小さく言う。


「見ているようだな」


 その声に、義姫も喜多も返事をしなかった。

 否定できない。

 かといって、軽々しく肯定もできない。

 赤子に“見ている”という言葉を与えすぎるのは危うい。


 それでも輝宗は、梵天丸の目をしばらく見つめていた。


 父としては、頼もしさもある。

 ただ泣き、ただ眠るだけの子ではなく、どこかこちらを拾っているような感じ。

 当主としては、そういう気配がいつか人を見る力に育つなら悪くないと思ってしまう。

 だが同時に、その目が何をどこまで拾うのかを考えると、少しばかり背筋も冷える。


 人に見られることは、避けられぬ。

 嫡男である以上、この子はこれからもずっと人に見られて育つ。

 ならばせめて、その見られる中で、人を見る目もまた持つことができれば――。


 そう考える自分を、輝宗は少しだけ苦くも思った。

 まだ乳飲み子だというのに、もうそんな先を見てしまうのかと。


 日が落ち、奥向きが静まり始めるころ、喜多はいつものように梵天丸の寝支度を整えた。


 布を替え、火鉢の位置を見、乳のあとの落ち着きを確かめる。おきぬはその補助をしながら、ふと今日一日の梵天丸の目の動きを思い返していた。


 母を見る。

 乳母を見る。

 父の気配にも反応する。

 人によって違う顔を見せるようでもある。


 もちろん、そう見えているだけかもしれない。

 だが、そう見えるということ自体が、すでにこの子の持つ不思議さなのだろうとも思う。


「喜多様」


「何」


「この子は、皆に見られておりますね」


「そうですね」


「けれど……」


 おきぬは少しためらってから続けた。


「皆を見てもおります」


 喜多は手を止めた。

 それから、おきぬの顔を見た。

 若い侍女の言うこととしては、少し出来すぎている。

 だが出来すぎているからといって、間違っているとは限らぬ。


「そう見えるなら」


 喜多は静かに言った。


「もう、そういう子なのでしょう」


 おきぬは、それを聞いて黙った。


 否定もされなかった。

 笑い飛ばしもされなかった。

 それだけで、自分の感じたことが少し現実味を帯びる。


 夜になった。


 火鉢の炭だけが赤く、障子の向こうはすっかり闇だ。雪はまた降り始めたようで、時折、静けさの質が少し変わる。深い夜の雪は、音を吸いながら城そのものを眠らせていく。


 梵天丸は眠っていた。


 喜多はその寝顔を見ながら、昼間のことを思い返していた。


 人に抱かれるごとに変わる表情。

 物音の前に動く視線。

 そして、ただの赤子にしては妙に印象に残る目元。


 虎哉宗乙の言葉もまた、胸に残っている。


 よく見る子になりましょう。


 喜多は、寝台のそばへ膝を寄せた。


 梵天丸は眠っている。

 眠っているだけなのに、ときどき「この子は起きているとき以上に何かを宿しているのではないか」と思わせる顔をする。

 もちろん、思い込みかもしれない。

 だが、思い込みだとしても、人にそう思わせる顔というものはある。


「この子は、人に見られながら、人も見ております」


 喜多は、ごく小さくそう言った。


 それは誰に聞かせるためでもない。

 自分の中で、いま芽生えつつある感覚に、静かに名を与えるような言葉だった。


 人に見られる子。

 それは宿命だ。

 若君である以上、避けられぬ。

 だが、見る子でもあるなら、この先、生き方はさらに難しくなる。


 見えるものが多ければ、人は早く知る。

 早く知れば、早く傷む。

 それでも見なければならぬのだとしたら――。


 喜多はその先を言葉にしなかった。


 火鉢の炭が小さく鳴り、梵天丸の指が布の上でわずかに動く。

 まるで夢の中で、まだ誰も知らぬ何かを掴もうとしているように。


 雪の夜は深く、静かだった。

 その静けさの中で、梵天丸は見られる子として、そして少しずつ見る子として、誰にも知られぬまま育ち始めていた。

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