坂道(下り)
昨日はスイマセン、と頭を下げると、大将は無言で頷いて、カウンターの空いている席を顎で示した。
この時間、いつもなら空席も目立つはずなのに、なぜか今日は殆ど満席で、カウンターの真ん中二席だけがちょうど空いていた。
いつも以上の無表情が、怒っているのか不機嫌なのかと冷や汗をかく。
「あれはね、笑うのを堪えてるのよ」
緒峯が解説してくれたが、本当だろうか。
何か頼むよりもさきにビールが(昨日頭から被った銘柄だった)、目の前に並べられた。
「はい、カンパーイ」
上機嫌でジョッキを掲げる緒峯にあわせて、申し訳程度にジョッキを持ち上げる。
「はい、そこら辺で聞き耳立ててる人たちにー、報告がありまーす」
ぶぅgyxytk?!?
「正式に、結婚を前提に、お付き合いすることになりました!」
ひゅう、とか、やったな、とか、とうとうか、とか、おせーよ、とか。
「げほ、ちょ、なに!?」
「いやー時間かかったな。お前らぐずぐずと、じれったいったらねぇよ」
「緒峯ちゃんもすっかり諦めてたからなー、男がガツンと行かないでどうする」
「まったくやきもきさせてくれるぜ」
周りから口々に野次られた。なんなんだ一体。
「ほら、俺ら常連はさ。緒峯ちゃんの事情とか、ナントナク知ってたからよ。お前と連れ立って来るようになって喜んでたんだよ。これで緒峯ちゃんも一安心ってな」
後ろのテーブルのサラリーマンが言う。
「なのにお前、なんだかグズグズと、ハッキリしねぇだろ」
横の上品なスーツが砕けた口調で言葉を被せる。
「けどなー、緒峯ちゃんが、余計なこと言うなって釘刺すもんだからよ」
カウンターの端からも、なにやら。
「皆、黙って見守ってた」
大将!? その口の端がほんの僅かに上がったソレが大将の笑顔ですか?
「昨日はあの後大騒ぎでなー」
「連絡付いた奴みんな来て大宴会」
「ビールの片付けも皆でやったんだぞー」
「んであの後どーなったんだ?」
なんだ。この店の客は一体どうなってるんだ。
「あーもーみんなして面白がってたくせに。異性間で友情は成り立つかという命題、なんて言ってたのは誰よ」
上品スーツがニヤリと挙手した。
「結論は持ち越しだな」
アウェイだ。俺一人が完璧なアウェイだ。そりゃこの店は前から緒峯の行きつけだったけど。
ちょっと吹いたけど半分以上は残っているビールを、一気に飲み干した。
「「おおー」」
何故か拍手が沸いた。ドン、とジョッキをカウンターに叩きつけ、立ち上がる。
「なんかご心配かけていたようですが! 今後は! 緒峯は絶対幸せにしますから!!」
自棄になって、店内をぐるりと見回して、宣言した。せめて酒の勢いを借りるくらいは大目に見て欲しい。
隣で緒峯が唖然としていたので、ぐいと引き寄せて口付けた。
店内、やんやヤンヤの大騒ぎになった。
大将がオゴリだと出してくれた皿は、いつもの居酒屋メニューにはない洒落たフレンチ風で、旬の大振りの牡蠣が素晴らしく旨かった。添えられたアスパラとパプリカのグリルはカラフルで、目にも鮮やかだった。
寡黙な大将が、無表情なりに祝福してくれているのを実感した。
「……アンタって、ホント、吹っ切れた後が予測不能よね」
酔い覚ましに、緒峯のアパートまで歩いて帰る。
普段緒峯と飲むときに、送っていくから、と理由をこじつけて、深酒しないよう自戒していた。
酔って、理性をなくすわけにいかなかったから。
だから、ここまで飲んだのは、実は久しぶりだ。
「んー。そうかもなー。みんなの前でキスしたのは、ちょっとやりすぎだったか?」
火照った顔に、夜風が気持ちいい。
「アンタ、あの時はまだ酔ってなかったでしょ。どう言い訳するの」
緒峯も結構飲まされたのか、夜目にも頬が真っ赤だ。
「あれはー。ほら、誓いのキス?」
幸せにするって宣言したし。アレくらいやってもいいだろ。
「…………やっぱアンタ、かなり酔ってるでしょ」
そうやって睨まれても、何故か嬉しくて仕方ない。
「ん。酔ってる。だって、もう我慢しなくていいんだろ」
ふわふわと浮かれた気分のまま、傍らの温もりを抱き寄せた。




