第9話 今さらの訪問者
応接間に入ると、ヴィンセント様は窓辺に立っていた。
夏の夜会以来、間近で見る彼は、少し痩せたように見えた。上着の仕立ては相変わらず上等だけれど、袖口のカフスが、以前つけていた銀ではなく、くすんだ真鍮に変わっている。
「やあ、ロレッタ」
振り返ったヴィンセント様は、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。
「ごきげんよう、ヴィンセント様。本日は、どのようなご用件でしょう」
長椅子には、父が落ち着かない様子で腰かけていた。侯爵家の嫡男を門前払いにはできなかったのだろう。
「そう硬くならないでくれ。今日は、謝りに来たんだ」
「……謝りに?」
「あの夜のことだよ。僕はどうかしていた。ジュリアに、いろいろと吹き込まれていてね。君が僕を退屈に思っているだとか、他に好きな男がいるだとか……今思えば、全部、彼女の嘘だったんだ」
ヴィンセント様は、私の前まで歩み寄ってきた。
「だから、ロレッタ。もう一度、やり直さないか」
部屋の中が、しんと静まり返った。
私は、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
あの誕生日の夜の私なら、きっとこの言葉にすがりついていたと思う。捨てられた理由が自分ではなかったのだと、ほっとして、涙を流して頷いていたかもしれない。
けれど、今は見えてしまう。
くすんだ真鍮のカフス。夜会でアーニーの名を聞いたとたん、青ざめた顔。そして今、この人の目が、私ではなく、窓の外の……バラの垣根の向こうにある隣の屋敷を、ちらちらと気にしていること。
「ヴィンセント様。お断りいたします」
ヴィンセント様の笑顔が、ぴくりと固まった。
「……今、なんと?」
「お断りいたします、と申しました。あの夜、私を退屈だとおっしゃったのは、ジュリア様ではなく、ヴィンセント様ご自身です。皆様の前で、ご自分のお言葉で」
「だから、それは彼女に――」
「それに、私はもう、淡い水色のドレスは着ないことにしたんです」
ヴィンセント様は、意味がわからないという顔をした。わからなくていい。この人には、きっと一生わからない。
「ロ、ロレッタ。少し、落ち着きなさい」
父が慌てたように腰を浮かせた。
「侯爵家からのお申し出なのだぞ。せめて、もう少し考えてから……」
「お父様」
私は、父の方を向いた。
「あの夜、ヴィンセント様が私を退屈だとおっしゃったとき、お父様は何もおっしゃいませんでした。……今度は、私に言わせてください」
父は口を開きかけて、そのまま黙り込んだ。
ヴィンセント様の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……そうか。あの隣国の公爵がいるから、強気なんだな」
低く押し殺した声だった。
「教えてやろう、ロレッタ。あの男は、君を本気で相手になどしていない。シルヴァーナには、あいつとの縁談が持ち上がっている王女がいるそうだ。近いうちに、この国へ来るという話もある」
「……王女様?」
「そうさ。隣国の公爵が、婚約破棄された伯爵家の娘なんかを本気で選ぶわけがないだろう。せいぜい、一年の暇つぶしだ。捨てられてから泣きついてきても、僕はもう知らないからな」
吐き捨てるようにそう言うと、ヴィンセント様は乱暴に扉を開けて出ていった。
馬車の音が遠ざかるまで、私はその場から動けなかった。
「……姉上」
廊下の陰から、トビアスがそっと顔を出した。どうやら、ずっと聞いていたらしい。
「格好よかったよ。父上に言い返すところ、特に」
「……聞いていたの?」
「うん。それと、さっき使用人たちが噂してた。ケアリー家、ペンバートン男爵家からの援助が当てにしていたほど入らなくて、借金がひどいことになってるんだって。ジュリア嬢とも、最近しょっちゅう揉めてるらしいよ」
ああ、と思った。
だから、カフスが真鍮だったのか。だから、今になって私のところへ来たのか。
私に戻ってきてほしかったのではない。隣国の公爵と縁のある伯爵家に、戻ってきてほしかっただけだ。
不思議と、悲しくはなかった。ただ、少しだけ空しかった。
それよりも、胸に残ったのは別の言葉だった。
『シルヴァーナには、あいつとの縁談が持ち上がっている王女がいるそうだ』
(……王女様)
樫の木の下で、中身も見ずにしまわれた隣国からの手紙。アーニーの、ほんの少し硬くなった横顔。
窓の外では、バラの垣根の葉が、少しずつ色を変え始めていた。




