第8話 好きなものの帳面
夏の終わりに、私は一冊の帳面を買った。
表紙は、もちろん若葉色だ。
最初の頁に、私は少し迷ってから、こう書いた。
『わたしの好きなもの』
その下に、ひとつずつ書き足していく。
『若葉の緑』
『木登り』
『雨が降る前の、土の匂い』
『マーサの焼くレモンのタルト(とくに端の、少し焦げたところ)』
『トビアスが寝ぼけて言う、意味のわからない寝言』
書いているうちに、自分でも驚くほど、次から次へと浮かんでくる。
三年間、どこかへしまい込んでいただけで、本当は全部、私の中にあったのだ。
頁をめくりながら、ふと手が止まった。
最後の行に、ペン先が勝手に何かを書こうとしていた。
『アーニーの』
そこまで書いて、慌てて塗りつぶした。
(な、何を書こうとしたの、私)
アーニーの、何。笑った顔? 困ったときに目尻が下がるところ? 木の下で両手を広げていた姿?
顔がかっと熱くなって、私は帳面をぱたんと閉じた。
「ロティ、何を書いているんですか」
「ひゃっ!?」
東屋の椅子から飛び上がりそうになった。
振り向くと、バラの垣根の向こうから、アーニーが覗き込んでいた。いつの間にか、垣根の一角に小さな木戸がつけられている。彼が「通いやすいように」と、父の許しを得て作らせたものだ。
「な、何でもないわ!」
「その表紙の色、見覚えがあります。宿題の続きですか」
「……そうよ。好きなものを、書き出しているの」
「見せてもらえますか」
「だめ!」
思わず帳面を胸に抱きしめると、アーニーは目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「そんなに隠されると、余計に気になりますね」
「気にしなくていいの。これは、私だけのものだから」
「……そうですね」
アーニーは、少しだけ目を細めた。
「あなただけのもの、というのは、いいですね。大事にしてください」
その声があまりにも優しかったので、私は帳面を抱えたまま、何も言えなくなった。
アーニーが帰っていったあと、私は庭の小道をぼんやりと歩いた。
この夏、彼はほとんど毎日のように顔を見せた。忙しいはずなのに、朝のわずかな時間や、仕事の合間を縫って。
木登りをした。布地屋へ行った。夜会で踊った。好きなものが、ひとつずつ増えていった。
そして、いつの間にか、木戸の開く音がすると、つい顔を上げてしまう自分がいる。
(……これって)
考えかけて、首を振った。
まだ、早い。婚約を破棄されて、まだ半年も経っていないのだ。弱っているところに優しくされて、そう思い込んでいるだけかもしれない。
それに、アーニーは時々、何かを隠している。
樫の木の下で黙り込んだ横顔。中身も見ずにしまわれた、隣国からの手紙。レイモンドが言いかけてやめた言葉。「祝辞を読んでいたかもしれない」という、冗談めかした一言。
彼が十年間、何をしていたのか。私は、まだ何も知らない。
夕暮れどき、屋敷の正門の方が騒がしくなった。
「お嬢様!」
マーサが、血相を変えて小道を駆けてきた。
「どうしたの、マーサ」
「門の前に、ケアリー侯爵家の馬車が……! ヴィンセント様が、お嬢様にお会いしたいと」
「……ヴィンセント様が?」
手の中の帳面を、ぎゅっと握りしめた。
婚約解消の書類に、事務的な署名だけを残していった人が。夜会で、アーニーの名を聞いて青ざめていた人が。
今さら、何の用があるというのだろう。
西の空が、熟れた杏の色に染まっていた。
夏が、終わろうとしていた。




