第7話 若葉色のドレス
夏の盛りに、ローウッド侯爵家から夜会の招待状が届いた。
朝食の席でそれを開いた母は、困ったような顔で父と目を見交わした。
「ローウッド侯爵家からでは、お断りするわけにはいかないわね……」
「ああ。あちらは格上だ。侯爵ご自身も、王宮で通商の要職に就いておられる。欠席などすれば、角が立つ」
父は招待状を指先で叩きながら、私の方をちらりと見た。
「……ケアリー家の方々も、いらっしゃるでしょうけれど」
母が小さく付け加える。気遣うような口ぶりだったけれど、私が「行きたくない」と言い出さないかを案じているのが、なんとなく伝わってきた。
以前の私なら、きっと黙って頷いていた。そして当日は壁際で、誰の目にも留まらないよう息を潜めていたはずだ。
けれど、今は少しだけ違った。
「ええ、出席いたします、お母様。……それで、新しいドレスを仕立ててもいいかしら」
母は目を瞬かせ、それから「好きになさい」と頷いた。
その日の午後、いつものように訪ねてきたアーニーにその話をすると、彼は上着の内側から、同じ封蝋の押された封筒を取り出した。
「僕のところにも届きました。ローウッド侯爵とは、通商の件で何度かお会いしているので」
「アーニーも行くのね」
「ええ。……ロティ」
彼は招待状を卓に置き、居住まいを正した。
「当日、あなたのエスコートをさせていただけませんか」
私は、すぐには答えられなかった。
婚約を破棄されたばかりの令嬢が、別の男性の腕を取って夜会に現れる。それがどんなふうに噂されるか、想像するのは難しくなかった。
「……ご迷惑にならないかしら。私と一緒にいたら、アーニーまで何を言われるか」
「何を言われても構いません。むしろ、あなたの隣にいるのが誰なのか、はっきり知ってもらえるなら好都合です」
アーニーは、少し困ったように笑った。
「それに……あの方がいる場所へ、あなたを一人で行かせたくないんです。これは、僕のわがままですが」
その言葉に、胸の奥がふっと温かくなった。
「……では、お願いしてもいい?」
「喜んで」
父に話すと、父は二つ返事で許した。むしろ、どうしてもっと早く頼まなかったのかと言わんばかりの顔だった。
夜会の当日、日が傾くころに公爵家の馬車で迎えに来る。そう約束して、アーニーは隣の屋敷へ帰っていった。
夜会の夜。
仕立て上がったドレスに袖を通し、鏡の前に立った私を見て、マーサが目を潤ませた。
「お嬢様……本当に、本当にお似合いです」
若葉の緑。
あの布地屋で見つけた色だった。袖と裾には白い糸で小さな葉の刺繍を入れてもらい、髪には、裏庭のバラの垣根から摘んだ白い花を一輪だけ挿した。
鏡の中の私は、私の知らない人みたいだった。
いいえ、違う。
たぶん、ずっと前の、私が忘れていた私だ。
玄関ホールへ降りていくと、約束どおり迎えに来てくれたアーニーが振り返って……そのまま、動かなくなった。
「……アーニー?」
「すみません。少し、息をするのを忘れていました」
彼は真顔でそう言い、それからゆっくりと手を差し出した。
「とても、きれいです。ロティ」
トビアスが階段の上で「うわあ」と声を上げ、父がわざとらしく咳払いをした。私は顔が熱くなるのを感じながら、その手を取った。
ローウッド侯爵家の広間に入ると、ざわめきが一瞬止まった。
視線が集まるのがわかる。けれど、それはあの誕生日の夜のような、憐れみと好奇の視線とは少し違っていた。
「あれ、ミルフォード家のロレッタ様……?」
「まあ、雰囲気が全然違うわ」
「隣にいらっしゃるのは、どなた?」
囁きの中で、私はまっすぐに顔を上げた。アーニーの腕が、すぐそばにある。それだけで、背筋を伸ばしていられた。
「ロレッタ」
聞き慣れた声に呼ばれて、足が止まった。
ヴィンセント様だった。隣には、薄紫のドレスを着たジュリア様がいる。
ヴィンセント様は、私の頭のてっぺんからつま先までを、信じられないものを見るような目で眺めた。
「……その色は、何だ。君には似合わないと言っただろう」
言われただろうか。覚えていない。けれど、言われたとしても、もうどうでもよかった。
「ごきげんよう、ヴィンセント様。これは、私が自分で選んだ色ですの」
「自分で……?」
「あらぁ、ロレッタ様」
ジュリア様が、扇の陰で目を細めた。
「ずいぶん早い乗り換えですのね。婚約を解消されて、まだ三月も経っていませんのに。さすが、伯爵家のご令嬢は抜け目がないですわぁ」
周囲の何人かが、くすりと笑った。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。以前の私なら、ここで黙って頭を下げていたと思う。
けれど、私が口を開くより先に、アーニーが一歩前へ出た。
「乗り換え、というのは正確ではありませんね」
穏やかな声だった。
「僕が勝手に十年待っていて、勝手に口説いているだけです。彼女はまだ、僕に返事をくれていません」
「十年……? あなた、いったい……」
ヴィンセント様が眉をひそめる。そのとき、近くにいた初老の紳士が、驚いたように声を上げた。
「おや、エヴァレット公爵閣下ではありませんか! シルヴァーナの外交官の。先日の通商会議では、大変お世話になりました」
「お久しぶりです、ローウッド侯爵」
広間の空気が、目に見えて変わった。
エヴァレット公爵。隣国の、それも王家に近い名門の当主。そんな囁きが、さざ波のように広がっていく。
ヴィンセント様の顔から、すうっと血の気が引いた。
「こ、公爵……? 隣国の……」
「ええ。ケアリー侯爵家の嫡男殿ですね。お噂は、かねがね」
アーニーは微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾けた。
「彼女を退屈だとおっしゃったそうですね。……見る目がなくて、本当に助かりました」
ヴィンセント様は、何も言い返せなかった。
ジュリア様が慌てて彼の袖を引き、二人はそそくさと人混みの中へ消えていった。去り際、ヴィンセント様が一度だけ振り返り、アーニーを……いいえ、アーニーの隣にいる私を、妙な目つきで見ていた気がした。
楽団が、ワルツを奏で始めた。
「踊っていただけますか、ロティ」
「……アーニー、さっきの、助かりましたって」
「本心です。あの方に見る目があったら、僕は今ごろ、あなたの結婚式で祝辞を読んでいたかもしれませんから」
冗談めかした口調だった。
けれど、手を取られて広間の中央へ進むあいだ、私はその言葉が妙に胸に引っかかっていた。
祝辞を読んでいたかもしれない。
まるで、本当にそうするつもりだったみたいな言い方だった。
ワルツが始まる。アーニーのリードは驚くほど丁寧で、私の歩幅にぴったりと合わせてくれた。若葉色の裾が、ふわりと広がる。
「ねえ、アーニー。あなた、木登りはできないのに、ダンスは上手なのね」
「シルヴァーナで、死ぬほど練習しましたから」
「どうして?」
「……いつか、あなたと踊るときのために」
見上げると、灰青の瞳が、まっすぐに私を見下ろしていた。
広間のざわめきも、楽団の音も、遠くなっていく。
ワルツが終わるまで、私はその目から視線をそらすことができなかった。




