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第6話 あの樫の木の上で

「ロティ。今日は、少し歩きませんか」


 布地屋へ行った数日後、アーニーはそう言って、私を領地の外れへ連れ出した。


 ミルフォード家とかつてのブライス家の領地のちょうど境目に、小さな草原がある。その真ん中に、一本の大きな樫の木が立っていた。


「……まだ、あったのね」


 思わず駆け寄っていた。


 ごつごつとした幹。低いところから横へ張り出した太い枝。子どもの頃、毎日のように登った木だった。十年経って、少しだけ大きくなった気がする。


「覚えていますか。あなたはいつも、あの三番目の枝まで登っていました」


「アーニーは、二番目の枝で泣いていたわね」


「……そこは忘れていてほしかったです」


 アーニーが苦い顔をしたので、私は声を立てて笑った。


 笑ってから、はっとした。


 こんなふうに、口を開けて笑ったのはいつ以来だろう。ヴィンセント様の前では、いつも口元を手で隠して、控えめに微笑むようにしていたから。


 見上げると、葉の隙間から陽の光がこぼれていた。あの日と同じ、緑色の光。


「……登りたいわ」


 ぽつりと言うと、アーニーが目を丸くした。


「今ですか?」


「だめかしら。二十歳の令嬢が木登りなんて、はしたないわよね」


「いいえ」


 彼は即座に首を振った。


「ここには僕しかいません。それに、僕はあなたが木に登っている姿が、昔からいちばん好きでした」


 さらりと言われて、頬が熱くなった。


 今日のドレスは、裾の短い、動きやすい木綿の外出着だった。……正直に言えば、出かける前、少しだけこうなることを期待して選んだのだ。


 私は手袋を外し、幹のくぼみに手をかけた。




 体が、覚えていた。


 どこに足をかければいいか。どの枝なら体重を預けても大丈夫か。十年ぶりなのに、手足が勝手に動いていく。


 一番目の枝。二番目の枝。


 少し息が切れたけれど、私はとうとう三番目の枝に腰を下ろした。


「登れたわ、アーニー!」


 下を見ると、アーニーが木の根元で、両手を広げて立っていた。


「……何をしているの?」


「落ちてきたら受け止めようと思って」


「落ちないわよ」


「わかっています。でも、念のため」


 その真剣な顔がおかしくて、私はまた笑った。


「アーニーも登ってきたら?」


「……僕は、ここで十分です」


「もしかして、今でも登れないの?」


 アーニーは答えなかった。答えないのが答えだった。


 隣国の公爵で、外交官で、布地屋の令嬢たちを笑顔ひとつで黙らせた人が、木登りだけは今も苦手らしい。私はなんだか嬉しくなって、枝の上で足をぶらぶらさせた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 風が吹くたびに、葉がさわさわと鳴る。遠くで雲雀が鳴いている。


「ねえ、アーニー」


「はい」


「シルヴァーナでの十年は、どんなふうだったの?」


 何気なく聞いたつもりだった。


 けれど、木の下のアーニーは、ほんの一瞬だけ黙った。


「……いろいろ、ありました」


 それから、何事もなかったように笑った。


「向こうの屋敷にも、大きな木がありましたよ。登れませんでしたけど」


「もう、またそうやってごまかす」


「ごまかしていません。本当に登れなかったんです」


 それ以上は、聞けなかった。


 いろいろ、という言葉の中に、どれだけのことが詰まっているのか。それを聞く資格が、今の私にあるのかどうか、わからなかったから。




 木から降りるときは、さすがに少し足がすくんだ。


 最後の枝から飛び降りると、アーニーが本当に私を受け止めた。


「……ほら、念のためでしょう」


「も、もう降りられたわ。離して」


「はい」


 すぐに手を離してくれたけれど、心臓がうるさくて仕方がなかった。


 草原の端に、アーニーの従者が待っていた。レイモンドという、黒髪の生真面目そうな青年だ。手には、封蝋のついた手紙を持っている。


「閣下。シルヴァーナより、急ぎの書簡です」


「……後で読む」


 アーニーは手紙を受け取ると、中身も見ずに上着の内側へしまった。その横顔が、ほんの少しだけ硬くなったように見えた。


「少し、屋敷へ戻って仕事を片付けてきます。ロティ、ここから一人で帰れますか」


「ええ、すぐそこだもの」


 アーニーが先に歩き出すと、レイモンドが私に深く頭を下げた。


「ミルフォード様。本日は、ありがとうございました。……閣下があのように笑われるのを、久しぶりに拝見いたしました」


「久しぶり、ですか?」


「はい。この十年、閣下がこの国へ来るために、どれほど……」


 レイモンドは、そこで言葉を切った。


「……いえ。出過ぎたことを申しました。失礼いたします」


 彼は一礼して、主人の後を追っていった。


 私は、草原の真ん中に立ち尽くしたまま、二人の背中を見送った。


(この国へ来るために、どれほど……?)


 樫の木の葉が、頭の上でさわさわと鳴っていた。

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