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第5話 最初の宿題

 あの誕生日の夜から、ひと月が過ぎた。


 季節はすっかり初夏に移り、裏庭のバラの垣根には、白い花がいっせいに咲きそろっている。


 そのひと月のあいだに、私の周りはずいぶんと変わった。


 まず、ケアリー侯爵家から届いたのは、謝罪の手紙ではなく、婚約解消の手続きに関する事務的な書類だった。父は渋い顔で署名し、母はため息をついた。それで、三年間の婚約はあっけなく終わった。


 それから、社交界での私の呼び名が変わった。


『侯爵家に捨てられた、退屈な伯爵令嬢』


 お茶会に出れば、扇の陰でひそひそと囁かれる。気の毒そうな顔をして近づいてきて、根掘り葉掘り聞きたがる方もいる。私は笑顔で受け流しながら、少しずつ外へ出るのが億劫になっていった。


 そして、もうひとつ。


「おはようございます、ロティ。宿題の答え合わせに来ました」


 隣の屋敷の公爵閣下が、三日にあげず我が家を訪ねてくるようになった。




「宿題って……好きな色のこと?」


「ええ。ひと月経ちましたから、そろそろ見つかったかと思って」


「……まだよ。考えれば考えるほど、わからなくなってしまって」


 正直に答えると、アーニーは「そうだろうと思いました」と笑った。


「では、探しに行きましょう」


 連れて行かれたのは、王都の外れにある大きな布地屋だった。


 店の奥へ一歩踏み入れた瞬間、私は思わず声を上げた。


 壁一面に、色とりどりの布が巻かれて並んでいる。燃えるような緋色、夜明け前の藍色、熟れた杏の色、雪のような白。光の加減で、色がさざ波のように揺れて見える。


「すごい……」


「好きなだけ見てください。気になったものがあれば、手に取って」


 付き添いのマーサが、後ろで「まあまあ」と目を細めている。


 私は、おそるおそる棚の間を歩き出した。


 最初は、つい淡い水色の前で足が止まった。三年間、毎日のように袖を通してきた色だ。けれど、手を伸ばしかけて……やめた。


(これは、ヴィンセント様の好きな色)


 次に、桃色の前で止まった。ジュリア様のドレスの色だった。慌てて通り過ぎる。


 薔薇色、葡萄色、蜂蜜色。どれもきれいだと思う。けれど、どれも「好き」なのかどうか、よくわからない。


 棚の端まで来て、私はふと、一本の布に目を奪われた。


 若葉の緑だった。


 初夏の陽射しを透かした、木の葉の色。明るくて、少しだけ青みがかっていて、見ているだけで胸の奥がすっと軽くなるような。


 気づけば、指先でその布をなでていた。


 頭に浮かんだのは、子どもの頃によじ登った、あの大きな樫の木だった。枝の上に寝転んで見上げると、葉っぱの隙間から光がこぼれてきて、世界じゅうが緑色に染まって見えた。


 あの景色が、私は大好きだった。


「……緑」


 小さく呟いた。


「緑、かもしれない。こういう、若葉の色」


 隣に立っていたアーニーが、ふっと息を漏らすように笑った。


「やっぱり」


「やっぱり?」


「……いえ。とても、あなたらしい色だと思っただけです」


 彼はなぜか少し照れたように視線をそらした。


 その袖口で、深い緑色のカフスが光っていた。初めて我が家に挨拶に来たときの上着も、そういえば緑だった。今日の襟元の飾り布も、よく見れば緑だ。


(アーニーも、緑が好きなのかしら)


 偶然ね、と言おうとして、なぜか言えなかった。




 布地を包んでもらっているあいだ、店の入口の方から、聞き覚えのある笑い声がした。


「あら、ロレッタ様じゃありませんこと?」


 振り返ると、何度かお茶会で顔を合わせたことのある令嬢が二人、扇を手に立っていた。


「まあ、お元気そうで安心いたしましたわ。あんなことがあったばかりですのに」


「ケアリー様のこと、本当にお気の毒でしたわね。でも、仕方ありませんわ。殿方には、やっぱり華のある方が……」


 二人は、くすくすと顔を見合わせる。


 いつものことだ。笑って、受け流せばいい。


 そう思って口を開きかけたとき、私の前に、すっと背の高い影が立った。


「失礼。ミルフォード嬢のご友人ですか」


 アーニーだった。


 穏やかな声。柔らかな微笑み。それなのに、なぜか店の空気がひやりと冷えた気がした。


「え、ええ……あの、あなたは……」


「シルヴァーナのエヴァレットと申します。今、ミルフォード嬢を一年かけて口説いている最中の者です」


 令嬢たちの扇が、ぴたりと止まった。


「ですので、彼女について何かお話しになるときは、言葉をお選びいただけると嬉しいです。……僕は、少々気が短いもので」


 にこりと笑ったアーニーに、二人は真っ青になって何度も頷き、逃げるように店を出ていった。


 私は、しばらく口がきけなかった。


「……アーニー。今の、気が短いって……」


「嘘ではありませんよ。あなたのことに関しては、昔から」


「それに、口説いている最中って、あんな大きな声で……!」


「事実ですから」


 真っ赤になった私の隣で、マーサが肩を震わせて笑いをこらえていた。


 帰りの馬車の中で、包みを膝に抱えながら、私はそっと窓の外を見た。


 街路樹の若葉が、光を透かして揺れている。


 好きな色が、ひとつ見つかった。


 たったそれだけのことが、こんなに嬉しいなんて、知らなかった。

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