第4話 一年かけて口説きます
翌朝、ミルフォード家は朝から大騒ぎだった。
「隣国の公爵閣下が、お見えになっている……?」
家令の報告を聞いた父が、持っていた珈琲の杯を取り落としかけた。
応接間に通されていたのは、アーニーだった。昨夜の外套姿とは違い、深い緑の上着に銀糸の刺繍。胸元には、昨夜の馬車の扉に描かれていたのと同じ紋章が光っている。
「お久しぶりです、ミルフォード伯爵。シルヴァーナ王国、エヴァレット公爵アーネストと申します。……旧姓は、ブライスでした」
「ブ、ブライス……? まさか、隣の、あのアーネスト君か!?」
「はい。幼い頃は、大変お世話になりました」
父と母は、目を白黒させていた。無理もない。十年前、借金を抱えて国を出ていった男爵家の次男が、隣国の公爵になって戻ってきたのだから。
アーニーは、お母様の生家であるエヴァレット公爵家の跡を継いだのだという。今は外交官として、この一年はエルスター王国に駐在することになったらしい。
「本日は、ロレッタ嬢への求婚のご挨拶に参りました」
その一言で、応接間の空気が一変した。
「きゅ、求婚……!」
「ええ。昨夜、ご本人にはお伝えしました」
父の顔が、見る見るうちに明るくなっていく。
「それは、なんと光栄な……! ロレッタ、お前、なぜ黙っていた! 閣下、娘でよろしければ、ぜひ――」
「お父様」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
父が口をつぐむ。母も、トビアスも、私を見た。
昨夜、ヴィンセント様の前で黙っていた父が、今度は私の返事も聞かずに頷こうとしている。私の行き先が、また私の知らないところで決まっていく。……それだけは、もう嫌だった。
「お返事は、私からいたします。……少し、アーネスト様と二人でお話をさせてください」
庭の東屋で、私はアーニーと向かい合った。
春の陽射しの下で見る彼は、昨夜よりもずっと大人びて見えた。
「昨夜は、ありがとう。外套、お返しするわね」
「差し上げたつもりでしたが」
「……いただけないわ」
畳んだ外套を差し出すと、彼は少し残念そうに受け取った。その仕草が、昔おやつを半分こしたときの顔とそっくりで、私は思わず笑いそうになった。
けれど、言わなければならないことがある。
「アーニー。あなたの気持ちは、とても嬉しかった。でも、今すぐにお受けすることはできないの」
「理由を、聞いてもいいですか」
「……あの約束は、私が冗談で書いたものよ。泣いているあなたを慰めたかっただけ。それなのに、あなたがその約束に縛られて、責任を感じて求婚してくれているのなら……それは、違うと思うの」
アーニーは何か言いかけたけれど、私は首を振って続けた。
「それにね。私、わからないの。三年間、ヴィンセント様の好みに合わせて生きてきたから、自分が何を好きで、何をしたいのか、全然わからない。……そんな空っぽのまま誰かと結婚したら、きっとまた同じことになるわ」
言い終えてから、少しだけ怖くなった。
せっかくの申し出を断る、面倒な女だと思われただろうか。
けれどアーニーは、怒りも、落胆もしなかった。ただ、少しだけ考えるように目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「わかりました」
そして、春の陽射しよりも柔らかく、微笑んだ。
「では、一年かけて口説きます」
「……え?」
「一年後の今日。あなたの二十一歳の誕生日に、もう一度、お返事をください。それまでに、僕が約束に縛られて求婚しているのではないと、証明してみせます」
彼は上着の内から、あの銀の小箱を取り出し、東屋の卓の上にそっと置いた。
「一年後に断られたら、この証文はあなたにお返しします。それで、約束はおしまいです」
お返しします。
その言葉を口にするとき、アーニーの声がほんのわずかに低くなった気がした。けれど、その理由を考える前に、彼は話を続けた。
「それから、もうひとつ。この一年で、あなたの好きなものを一緒に探させてください」
「私の、好きなもの……?」
「ええ。たとえば……ロティ、好きな色は?」
好きな色。
私は口を開いて、それから、何も言えずに閉じた。
淡い水色、と言いかけた。けれど、それはヴィンセント様が褒めた色だ。私が選んだ色じゃない。
子どもの頃は、何色が好きだったっけ。
「……わからないわ」
小さな声でそう答えると、アーニーは、なぜか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、それが最初の宿題ですね」
その日の夕方、トビアスが私の部屋に飛び込んできた。
「姉上! 隣の屋敷、本当にエヴァレット公爵が住むんだって! 一年間、ずっと!」
「ええ、聞いたわ」
「すごいよ、あの人! 父上にも全然遠慮しないし、ヴィンセントの百倍格好いい! ねえ、もう『義兄上』って呼んでもいい?」
「だめよ。まだお返事していないんだから」
「『まだ』ってことは、そのうちするんだ」
「トビアス!」
弟は笑いながら逃げていった。
ひとりになった部屋で、私は鏡の前に立った。
淡い水色のドレスが、何着も衣装箪笥に並んでいる。三年間、私はこの色しか選んでこなかった。
(私の、好きな色……)
窓の外、バラの垣根の向こうに、ブライス家の……いいえ、エヴァレット公爵邸の明かりが灯る。
一年。
長いのか短いのか、まだ見当もつかない。
けれど、二十歳の誕生日の翌日。私は何年かぶりに、自分のことを考えていた。




