第3話 十年前の証文
角灯の明かりが、ゆっくりと近づいてくる。
栗色の髪。灰色がかった青い瞳。記憶の中の男の子よりずっと背が高くて、肩幅も広い。けれど、少し下がり気味の目尻だけは、あの頃とまったく同じだった。
「……アーニー?」
「ええ。覚えていてくれましたか」
彼は、ほっとしたように目を細めた。
声が低くなっている。言葉遣いも、昔とはまるで違う。それでも、その笑い方を見た瞬間、十年という時間がふっと縮んだ気がした。
「どうして、ここに……シルヴァーナにいたんじゃなかったの?」
「今夜、戻りました。この屋敷を買い戻したので」
「買い戻した?」
「はい。少し、事情がありまして」
アーニーは、垣根越しに私を見下ろした。その視線が、私の肩掛けと、寝間着の裾と、素足に履いた柔らかな布靴へと順に移る。
「こんな時間に、そんな格好で庭にいるなんて。……何か、ありましたか」
「何も。少し眠れなかっただけよ。大丈夫」
反射的に、そう答えていた。
アーニーは黙って私を見つめた。それから、静かに言った。
「昔から、あなたの『大丈夫』は、大丈夫じゃないときの言葉でしたね」
……どうして。
十年も会っていなかったのに。どうして、そんなことを覚えているの。
「さっき、門の前で客人たちの馬車とすれ違いました。御者たちが話しているのが聞こえて……婚約が、解消されたと」
「……ええ。そうなの。今夜」
言葉にした途端、喉の奥がぎゅっと詰まった。
「私が退屈だからって。いつも同じ顔で笑って、頷くだけだからって。……その通りなのよ。だから、仕方がないの」
笑って言うつもりだった。それなのに、声が震えた。
ぽたり、と手の甲に何かが落ちる。
広間ではあんなに出てこなかった涙が、どうして今になって。
アーニーは何も言わずに角灯を足元に置くと、外套を脱いで、垣根越しに私の肩へかけてくれた。まだ彼の体温が残っていて、温かかった。
「仕方がなくなんか、ありません」
低い声だった。穏やかなのに、どこか怒っているように聞こえた。
「あなたは退屈な人じゃない。木登りが僕より上手くて、虫を怖がらなくて、泣いている子どもを放っておけない人です。……少なくとも、僕はそう知っています」
私は外套の襟を握りしめたまま、しばらく声を出せなかった。
ようやく涙が止まったころ、アーニーは上着の内側から何かを取り出した。
手のひらほどの、細長い銀の小箱だった。
彼はそれを開けかけて……ほんの一瞬、手を止めた。まるで、本当は出すつもりのなかったものを出そうとしているみたいに。
けれど、すぐに蓋を開け、中から一枚の紙を取り出した。
黄ばんで、角がすり切れた紙。何度も折りたたまれ、そのたびに大切に伸ばされたことがわかる、柔らかな紙だった。
「これを、覚えていますか」
角灯の明かりに照らされたそれを見て、私は息を止めた。
『やくそくしょ
にじゅっさいまでに ふたりとも けっこんしていなかったら
ふたりは けっこんします』
ところどころ綴りの怪しい、幼い字。その下に、二人分の署名があった。
『ロレッタ・ミルフォード』
『アーネスト・ブライス』
そして、赤い封蝋。蝋の真ん中には、紋章のかわりに、小さな丸い模様が押されている。……上着の、ボタンだ。
「あ……」
思い出した。
別れの日。泣きやまないアーニーに、私は日記帳の頁を一枚破りとって、これを書いたのだ。
『泣かないで、アーニー。もし二十歳になっても二人とも結婚してなかったら、私がアーニーと結婚してあげる。そうしたら、また会えるでしょ』
冗談のつもりだった。
ただ、彼を泣きやませたかった。それだけだった。封蝋の印がないから、彼の上着のボタンを引きちぎって押したことまで、今になって鮮やかに思い出す。
「……持っていたの? 十年も?」
「ええ。十年間、ずっと」
アーニーは垣根の前で、片膝をついた。
夜露に濡れた芝が、彼の膝を濡らしていく。それでも彼は気にした様子もなく、まっすぐに私を見上げた。
「ロレッタ・ミルフォード嬢」
角灯の火が、彼の瞳の中で揺れていた。
「約束を、果たしに来ました。僕と結婚してください」
風が吹いて、早咲きのバラの花びらが二人のあいだに舞った。
私は、何も言えなかった。
だって、つい三時間前に、婚約を破棄されたばかりなのだ。十年ぶりに会った幼なじみが、子どもの頃の落書きのような証文を持って、膝をついている。
頭がまるで追いつかない。
「……少し」
ようやく、それだけを絞り出した。
「少し、考えさせて」
アーニーは、驚いた顔をしなかった。まるで、そう答えることを知っていたみたいに、穏やかに微笑んだ。
「ええ、もちろん。明日、改めてご挨拶に伺います」
彼は証文を丁寧に折りたたみ、銀の小箱へ戻した。
「今夜は、もう休んでください。……風邪をひきますよ、ロティ」
その声があまりにも優しくて、私はまた少しだけ泣きそうになった。




