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第2話 いつかの垣根の向こう

 最後の馬車が門を出ていったのは、日付が変わる少し前だった。


 父の書斎に呼ばれた私は、扉の前で小さく息を整えてから中へ入った。父は机に肘をつき、母は長椅子で目元をハンカチで押さえている。


「……ロレッタ。ケアリー家には、明日にでも正式に抗議の書状を送る」


「はい、お父様」


「だが、騒ぎ立てるつもりはない。相手は侯爵家だ。事を荒立てれば、お前の次の縁談にも響く」


 次の縁談。


 婚約を破棄されて、まだ三時間も経っていないのに。


「どうしてもっと、上手くやれなかったの」


 母が、ハンカチ越しにくぐもった声で言った。


「あなたがもう少し華やかにしていれば、ヴィンセント様だって……」


「お母様、それは……」


 トビアスが何か言いかけたのを、私は目で制した。弟まで叱られることはない。


「……申し訳ございません」


 気づけば、頭を下げていた。


 私が悪いのだろうか。わからない。けれど、こういうとき、謝ってしまえば話は早く終わる。それを私はよく知っていた。


「もういい。今夜は休みなさい」


 父の疲れた声に送られて、私は書斎を出た。




 寝台に横になっても、少しも眠れなかった。


 天井を見上げていると、広間の光景が何度も浮かんでくる。ヴィンセント様の冷たい目。ジュリア様の甘い声。黙ったままの両親。気まずそうに目を逸らす招待客たち。


(……退屈、か)


 そうなのかもしれない、と思う。


 私は、ヴィンセント様に嫌われないことばかり考えてきた。何を着れば喜ぶか。何を言えば機嫌を損ねないか。そうしているうちに、私が本当は何を好きだったのか、わからなくなってしまった。


 退屈な娘になったのは、私自身だ。


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。それなのに、やっぱり涙は出てこない。泣き方まで忘れてしまったみたいだった。


 私は寝台を抜け出し、肩掛けを羽織った。少しだけ、外の空気が吸いたかった。




 裏庭は、春の夜の匂いがした。


 足元の芝は夜露に濡れ、遠くで蛙が鳴いている。私は昔からの癖で、庭の奥へと歩いていった。


 ミルフォード家の裏庭の端には、古いバラの垣根がある。その向こうは、かつてブライス男爵家の屋敷だった。


 ブライス家の次男、アーネスト。


 二つ年上の、泣き虫な男の子。


 私たちは、物心ついた頃から、この垣根の破れ目をくぐって行き来していた。木登りをして、泥だらけになって、マーサに二人そろって叱られた。私は彼を「アーニー」と呼び、彼は私を「ロティ」と呼んだ。


 けれど、私が十歳の春に、彼のお父様が亡くなった。ブライス家には借金が残り、屋敷は人手に渡った。アーニーは、お母様の故郷である隣国シルヴァーナへ引き取られていった。


 最初の一年は、手紙のやりとりがあった。けれど、いつの間にか途絶えてしまった。どちらから途絶えたのかさえ、もう覚えていない。


(……あの日、私、何か約束をした気がするのよね)


 別れの日。垣根の破れ目の前で、アーニーは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。私は彼を泣きやませたくて、何かを言った。何かを書いた。


 けれど、それが何だったのか、どうしても思い出せない。


 白いバラのつぼみが、月明かりにぼんやりと浮かんでいる。垣根の破れ目は、もうとっくに塞がれていた。


 その向こう、空き家になって久しいはずのブライス家の屋敷に……明かりが灯っていた。


(え……?)


 見間違いではなかった。二階の窓のひとつが、橙色に光っている。


 門の前には、一台の馬車が停まっていた。夜目にもわかる、黒塗りの立派な馬車だ。扉には見慣れない紋章が描かれている。


 誰かが、越してきたのだろうか。こんな夜更けに。


 垣根に近づいたとき、さく、と芝を踏む音がした。


 振り向くと、角灯を手にした人影が、垣根の向こう側に立っていた。


 背の高い男性だった。濃い色の外套を羽織り、角灯の光が、その顔の半分だけを照らしている。


 彼は私を見て、ほんの少しだけ目を見開いた。


「……ロティ?」


 心臓が、どくんと跳ねた。


 その名前で私を呼ぶ人は、この十年、ひとりもいなかった。

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