第1話 二十歳の夜、婚約者は遅れてきた
二十歳の誕生日は、もう少し特別な気持ちになるものだと思っていた。
鏡の前で、侍女のマーサが私の髪に最後の真珠のピンを挿している。淡い水色のドレスは、婚約者のヴィンセント様が「品がいい」と言ってくださった色だ。三年前、婚約が決まった日に一度だけ。それ以来、私は夜会のたびにこの色を選んでいる。
「お嬢様、本当にお綺麗ですよ」
「ありがとう、マーサ。……ヴィンセント様は、もういらしている?」
「いえ、まだ……。ケアリー家の馬車は、お見えになっていません」
マーサの声がわずかに曇った。私は気づかないふりをして、手袋の皺を伸ばす。
(大丈夫。お忙しい方だもの。遅れていらっしゃることは、今までにもあったわ)
婚約者の誕生日の夜会に遅れてくることが「今までにもあった」という時点で、本当はおかしいのかもしれない。けれど、そういうことを考え始めると、胸の奥がしくしくと痛む。だから私は、考えないことにしていた。
良い婚約者でいること。ケアリー侯爵家にふさわしい、控えめで、手のかからない娘でいること。それがミルフォード伯爵家の長女として、私にできるいちばんのことだと思ってきた。
広間には、すでに多くの招待客が集まっていた。
父と母が客人たちに挨拶をして回り、弟のトビアスは慣れない礼服の襟を何度も引っ張っている。
「姉上、おめでとう。……あの人、まだ来てないの?」
「トビアス。『あの人』ではなくて、ヴィンセント様よ」
「はいはい、ヴィンセント様ね」
十六になったばかりの弟は、昔からヴィンセント様のことがあまり好きではないらしい。理由を尋ねても「なんとなく」としか言わないので、私はいつも困った顔で笑うしかなかった。
楽団が二曲目を奏で終えたころ、広間の扉が開いた。
入ってきたのは、ヴィンセント様だった。濃紺の上着に、ケアリー家の紋章の入った銀のカフス。いつもどおり隙のない装いで……その腕に、見知らぬ令嬢の手が添えられていた。
蜂蜜色の巻き毛に、淡い桃色のドレス。小柄で、守ってあげたくなるような愛らしい方だ。
広間のざわめきが、すうっと引いていくのがわかった。
「ああ、ロレッタ。今日だったか」
ヴィンセント様は私の前で足を止め、軽く顎を引いた。それが挨拶のつもりなのだと理解するまでに、少しかかった。
「……ようこそおいでくださいました、ヴィンセント様。そちらの方は」
「ジュリア・ペンバートン嬢だ。ペンバートン男爵家の」
「はじめまして、ロレッタ様。お誕生日、おめでとうございますぅ」
ジュリア様はにっこりと笑い、ヴィンセント様の腕にいっそう身を寄せた。
私は微笑んで礼を返した。頬が少し引きつったけれど、きっと誰にも気づかれていない。三年間、笑顔だけは練習してきたのだから。
乾杯の時間になった。
父が硝子の杯を掲げ、咳払いをひとつする。
「皆様、本日は娘ロレッタの二十歳の祝いにお集まりいただき――」
「その前に、皆に聞いてもらいたいことがある」
父の声を遮って、ヴィンセント様が一歩前へ出た。
広間じゅうの視線が、彼に集まる。
「僕、ヴィンセント・ケアリーは、ロレッタ・ミルフォード嬢との婚約を、本日をもって解消する」
……え?
誰かが息を呑む音がした。楽団の弓が、弦の上で止まる。
「ヴィンセント様、それは、どういう……」
「言葉どおりの意味だよ、ロレッタ。君とは結婚できない」
ヴィンセント様は、まるで天気の話でもするような顔で言った。
「君は退屈なんだ。いつも同じ色のドレスを着て、同じ顔で笑って、僕の言うことに頷くだけだ。三年間、君と話していて楽しいと思ったことが一度もない」
同じ色のドレス。
私は、自分の胸元を見下ろした。淡い水色。あなたが、品がいいと言ったから。
「その点、ジュリアは違う。彼女は僕を笑わせてくれるし、僕の話をちゃんと聞いてくれる」
「ヴィンセント様ったら……ロレッタ様の前で、恥ずかしいですぅ」
ジュリア様が頬を染める。その目が一瞬だけ、私を見て細められた。勝ち誇ったような、けれど、どこか値踏みするような目だった。
私は助けを求めるように、父を見た。
父は青ざめた顔で、杯を掲げたまま固まっていた。母は扇で口元を覆い、目を伏せている。
……誰も、何も言ってくれない。
そうよね、と、どこか遠いところで思った。侯爵家を相手に、伯爵家が声を荒らげるわけにはいかない。父も母も、いつだってそういう人たちだった。
だから私は、自分で言うしかなかった。
「……承知いたしました」
ドレスの裾をつまみ、膝を折る。三年間、何百回と繰り返してきた礼だった。
「これまで、ありがとうございました。ヴィンセント様とジュリア様の、お幸せをお祈りしております」
ヴィンセント様は少しだけ驚いた顔をして、それから鼻で笑った。
「……最後まで、そういうところが退屈なんだ」
彼はジュリア様の手を取り、そのまま広間を出ていった。
残された招待客たちが、気まずそうに視線を交わし合う。囁き声が、さざ波のように広がっていく。
私は顔を上げ、精一杯の笑みを浮かべた。
「皆様、せっかくの夜を私事でお騒がせしてしまい、申し訳ございません。どうぞ、最後までお楽しみくださいませ」
楽団に目配せをすると、ぎこちなく演奏が再開された。
二十歳の誕生日。
私は、三年間の婚約者を失った。
そしてそのことに、自分でも驚くほど、涙が出てこなかった。




