第19話 新しい証文
誕生日の三日前、私は日記帳を一冊買った。
表紙は、若葉色。好きなものの帳面とおそろいの色だ。
部屋の机に向かい、私はその最初の頁を、そっと破りとった。
びりっ、という音がして、十年前の朝のことを思い出した。垣根の柱に紙を押し当てて、慌てて書いた幼い字。インクが滲んで、綴りを間違えて。
今度は、ゆっくり書こう。
私は羽根ペンをインク壺に浸し、一文字ずつ、丁寧に書き始めた。
書いては手を止め、窓の外を眺め、また書く。途中で何度か、書き損じて新しい頁を破った。たった数行なのに、書き上げるまでに、夕暮れまでかかってしまった。
書き終えた紙を灯りにかざして、私は小さく息を吐いた。
(……これで、いいわ)
最後に、署名の横の余白を見つめる。
封蝋を押す場所だ。
ミルフォード家の印章を使うこともできる。けれど、それではなんだか違う気がした。
私は、衣装箪笥を開けた。
並んでいるのは、もう淡い水色ばかりではない。若葉色、朝焼けの杏色、雨上がりの空の色。この一年で、自分で選んで仕立てたドレスたちだ。
その中から、いちばん最初に仕立てた、あの夏の夜会の若葉色のドレスを取り出した。
袖口に、小さな白い貝のボタンがついている。
私はそのボタンを指でつまんで……少しだけ迷ってから、ぶちっ、と引きちぎった。
「お、お嬢様!? 何をなさって……」
ちょうど部屋に入ってきたマーサが、目を丸くした。
「大丈夫よ、マーサ。あとで、ちゃんと縫い直すから」
私は蝋燭に封蝋の棒をかざし、赤い蝋を紙の端に垂らした。
そして、まだ柔らかいその上に、白いボタンをぎゅっと押しつけた。
マーサは、しばらく黙ってそれを見ていた。
やがて、そっとエプロンの端で目元を押さえた。
「……十年前と、同じですね」
「覚えているの?」
「ええ。あの朝、お嬢様が蝋燭と封蝋を持って、屋敷を飛び出していったのを。叱ろうとしたら、『大事な約束なの!』って、すごい剣幕で」
マーサは、泣き笑いの顔で言った。
「あの泣き虫の坊ちゃまが、まさか本当に迎えに来てくださるなんて。……長生きは、するものですね」
誕生日の前日。
私はアーニーに、一通の手紙を書いた。
『明日の朝、日の出のあとに、樫の木の下で待っています。 ロティ』
それだけを書いて、封をした。
マーサに頼んで木戸の向こうへ届けてもらうと、ほどなくして、垣根の向こうからレイモンドが返事を持ってきた。
『必ず行きます。 アーニー』
筆跡が、ほんの少しだけ震えていた。
「閣下は、この手紙を受け取られてから、書斎を三十往復ほどなさいました」
レイモンドが、真面目な顔で報告した。
「それから、明日着ていく上着を四回替えられました。最終的に、いつもの緑に落ち着かれたようです」
「……そう。ありがとう、レイモンド」
「いえ。ミルフォード様」
レイモンドは一礼して帰りかけ、それから振り返った。
「明日は、晴れるそうですよ」
その夜、夕食のあとで、トビアスが私の部屋の扉を叩いた。
「姉上、ちょっといい?」
「どうしたの」
「いや、別に用はないんだけどさ」
トビアスは部屋に入ってくると、所在なさげに窓辺に立った。
しばらく黙って、垣根の向こうの屋敷の明かりを眺めていた。
「……あのさ、姉上。明日、断ったりしないよね?」
「どうして、そう思うの」
「だって、姉上、ここ数日、全然あの人のとこ行かないじゃん。あの人、ずっとこの世の終わりみたいな顔してるし」
思わず吹き出してしまった。カタリナ殿下と、まったく同じことを言っている。
「心配しなくていいわ、トビアス」
「本当に?」
「ええ。……ただ、ちゃんと伝えたいだけなの。一年分、ちゃんと」
トビアスは、じっと私の顔を見た。
それから、ほっとしたように笑った。
「そっか。じゃあ、明日から『義兄上』って呼んでいい?」
「明日のお返事を聞いてからにしなさい」
「やっぱり、いいってことじゃん」
トビアスは笑いながら、部屋を出ていった。
ひとりになって、私は机の引き出しを開けた。
新しい証文と、若葉色の好きなものの帳面。その二つを並べて、そっと指でなぞった。
窓の外では、バラの垣根の向こうで、まだ明かりがひとつ灯っている。
(……あなたも、眠れないのね)
私はその明かりに向かって、小さく呟いた。
「おやすみなさい、アーニー。また、明日」




