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第20話 二十一歳の誕生日

最終話になります。

 夜明け前に目が覚めた。


 まだ薄暗い部屋で、私は若葉色のドレスに袖を通した。昨夜のうちに、マーサが白い貝のボタンを縫い直してくれていた。……もちろん、袖口のひとつだけ、蝋の跡がうっすら残っている。


 髪には、アーニーがくれた若葉色のリボンを結んだ。


 懐に新しい証文と帳面を入れて、私はそっと屋敷を抜け出した。




 草原には、朝靄が薄くかかっていた。


 樫の木は、一年前と同じ場所に、どっしりと立っていた。春の芽吹きを迎えた枝の先に、若葉がいっせいにほころび始めている。


 私は手袋を外し、幹のくぼみに手をかけた。


 一番目の枝。二番目の枝。


 一年前よりずっと楽に、体が動く。この一年で、何度もこの木に登ったからだ。ひとりのときも、アーニーが木の下で両手を広げて待っているときも。


 三番目の枝に腰を下ろしたとき、ちょうど、東の空から朝日が昇った。


 光が葉の隙間からこぼれて、世界じゅうが、緑色に染まった。


「……ロティ」


 下から、声がした。


 見下ろすと、アーニーが木の根元に立っていた。いつもの深い緑の上着。けれど、髪は少し乱れていて、目の下にはうっすらと隈ができている。


 レイモンドの報告どおり、一睡もしていない顔だった。


「おはよう、アーニー」


「おはようございます。……そこで、待っていたんですか」


「ええ。今日は、ここで言いたかったの」


 アーニーは、両手を広げかけた。いつもの「念のため」の姿勢だ。


 私は首を振った。


「今日は、受け止めなくていいわ。……アーニー、登ってきて」


「え……」


「三番目の枝まで。あなた、一度も来たことがないでしょう?」


 アーニーは、目を丸くした。それから、困ったように眉を下げた。


「僕が木登りが苦手なのは、知っているでしょう」


「知っているわ。だから、手を貸すの」


 アーニーは、しばらく木を見上げていた。


 やがて、覚悟を決めたように上着の袖をまくり、幹に手をかけた。


 一番目の枝までは、なんとか登ってきた。二番目の枝で、案の定、止まった。


 枝にしがみついたまま、アーニーが下を見て、ごくりと喉を鳴らすのがわかった。


 十二歳の春と同じだ。あの頃も、彼はいつもここで止まって、泣きそうな顔をしていた。


 私は、三番目の枝から身を乗り出して、手を伸ばした。


「アーニー。つかまって」


 アーニーが、顔を上げた。


 灰青の瞳が、私の手を見て、それから私の顔を見た。


 彼は、ゆっくりと手を伸ばした。


 指先が触れて、しっかりと手のひらが重なった。私は両足で枝を踏みしめ、思いきり引き上げた。


 アーニーの体が、ぐいと持ち上がる。


 次の瞬間、彼は三番目の枝の上に、私の隣に、転がり込むようにして座っていた。


 二人とも、息を切らしていた。


「……登れた」


 アーニーが、呆然と呟いた。


 それから、ゆっくりと顔を上げて、周りを見回した。


 葉の隙間からこぼれる朝日。風にそよぐ若葉。その向こうに広がる草原と、バラの垣根と、二つの屋敷の屋根。


 何もかもが、緑色の光に包まれていた。


「本当だ」


 アーニーの声が、かすかに震えた。


「世界じゅうが、緑色ですね」


「でしょう? 十年以上前から、ずっと教えてあげたかったのよ」




 私は懐から、新しい証文を取り出した。


 アーニーの手に、そっと乗せる。


「一年前のお返事よ。……読んで」


 アーニーは、紙を開いた。


 そこには、私の字で、こう書かれている。


『約束書


 二十一歳の誕生日に、ロレッタ・ミルフォードは、アーネスト・エヴァレットと結婚します。


 これは、誰かを泣きやませるための約束ではありません。

 同情でも、申し訳なさでもありません。

 私が、私の好きなものを選んだ結果です。


 ロレッタ・ミルフォード』


 署名の横には、赤い封蝋。その真ん中に、白い貝のボタンの跡が、くっきりと残っている。


 アーニーは、長いあいだ、その紙を見つめていた。


 何度も、何度も、読み返しているのがわかった。


「……ボタン」


「今度は、私のボタンよ。アーニーのボタンばかり引きちぎるのは、不公平でしょう?」


 私は、もうひとつ、懐から若葉色の帳面を取り出した。


 最後の頁を開いて、アーニーに見せる。


『わたしの好きなもの』


 若葉の緑。木登り。雨が降る前の土の匂い。レモンのタルトの焦げたところ。トビアスの寝言。


 そして、最後の行。インクで塗りつぶした跡の上に、小さく書かれた名前。


『アーニー』


「秋に、書いたの。王女様とあなたが並んでいるのを見て、やっと気づいて」


 声が、少しだけ震えた。


「あなたが十年かけて守ってくれた約束を、私は一年かけて、やっと自分で選べたの。……遅くなって、ごめんなさい」


 アーニーは、何も言わなかった。


 証文と帳面を胸に抱えたまま、うつむいて、肩を震わせていた。


 ぽたり、と枝の上に雫が落ちる。


「……泣き虫」


「あなたの前だけだと、言ったでしょう」


 くぐもった声でそう言って、アーニーは顔を上げた。


 頬を濡らしたまま、それでも、今まで見たなかでいちばん嬉しそうな顔で笑っていた。


「ロレッタ・ミルフォード嬢」


「はい」


「一年かけて、口説かれてくださって、ありがとうございます」


「……どういたしまして」


 思わず笑ってしまった私の手を、アーニーがそっと取った。


 そして、上着の内ポケットから、あの銀の小箱を取り出した。


「一年後に断られたら、お返しすると約束していましたね」


「ええ」


「……これは、もう返さなくていいでしょうか」


 十年前の、黄ばんで角のすり切れた紙。私の幼い字と、真鍮のボタンの封蝋。


「返さなくていいわ」


 私は、アーニーの手ごと、銀の小箱を包み込んだ。


「二枚とも、あなたが持っていて。……今度は、二人で守る約束だから」


 アーニーは銀の小箱を内ポケットにしまうと、少しだけ表情を引き締めた。


「ロティ。もうひとつ、話しておかなければならないことがあります」


「なあに?」


「僕の駐在の任期は、この夏で終わります。……シルヴァーナへ、帰らなければなりません」


 知っていた。


 カタリナ殿下の手紙にも、そう書いてあったのだから。この冬のあいだ、何度もそのことを考えては、考えないようにしてきた。


「国王陛下から、宰相補佐の席をもう一度、と言われています。お受けするつもりでいました。でも……」


 アーニーは、私の手を握る指に、少しだけ力を込めた。


「あなたが望むなら、断ります。外交官の籍だけ残して、このままエルスターに留まることもできる。あなたの家族も、この木も、バラの垣根も、全部ここにありますから」


 私は、首を横に振った。


「だめよ」


「ロティ……」


「その席は、あなたが十年かけて、頬を打たれても、地位を失っても、それでも手放さなかったものの先にあるんでしょう? 私のために、また何かを諦めるなんて、もうやめて」


 私は、アーニーの手を握り返した。


「一緒に行くわ、シルヴァーナへ」


 アーニーの目が、大きく見開かれた。


「……本当に、いいんですか。知り合いもいない国です。言葉も、少し違う」


「覚えるわ。好きなものを一年で一冊ぶん見つけられたんだもの。言葉くらい、なんとかなるわよ」


 それに、と私は付け加えた。


「シルヴァーナのお屋敷にも、大きな木があるんでしょう? あなたが登れなかったっていう木」


「……ありますね」


「今度は、二人で登るの。私が手を貸すから」


 アーニーは、しばらく黙って私を見ていた。


 それから、泣き笑いのような顔で頷いた。


「隣の屋敷は、このまま残しておきます。毎年春、あなたの誕生日には、ここへ帰ってきましょう」


「この木に登りに?」


「ええ。……次こそは、自力で三番目の枝まで登れるように、練習しておきます」


 真顔でそう言うアーニーに、私は声を立てて笑った。


 朝の光の中で、樫の若葉がさわさわと鳴っていた。




 その年の夏、エルスターとシルヴァーナの国境に近い小さな教会で、ささやかな結婚式が挙げられた。


 花嫁のドレスは、若葉の緑だった。


 参列者の誰もが、花嫁にしては珍しい色だと囁いた。けれど、それを選んだのが花嫁自身だと知ると、皆、納得したように微笑んだ。


 花婿は、式のあいだじゅう、ずっと泣いていたという。


 式の翌朝、二人はシルヴァーナへ向かう馬車に乗った。


 見送りに来たトビアスは、「泣いてない」と言い張りながら、目を真っ赤にしていた。父と母は、馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。マーサは、焼きたてのレモンのタルトの包みを花嫁の膝に押しつけた。端の、少し焦げたところを多めに切り分けて。


 バラの垣根の向こうの屋敷は、そのまま残された。


 毎年春、妻の誕生日に、二人で帰ってくるために。


 そして、花婿の上着の内ポケットには、銀の小箱がひとつ入っていた。


 中には、二枚の古い証文が、大切に重ねて収められていた。


 一枚は、十歳の少女が、泣き虫の少年のために書いた約束。


 もう一枚は、二十一歳の女性が、自分の好きなものを選んで書いた約束。


 どちらにも、小さなボタンの封蝋が押されている。


 ぜったいに破れない約束の、しるしとして。


(完)

これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!

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