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第16話 結び直したボタン

 涙が、止まらなかった。


 アーニーの話を聞いているあいだじゅう、私はずっと、膝の上で手を握りしめていた。


 出せなかった手紙でいっぱいの引き出し。頬を打たれても曲げなかった言葉。一晩じゅう証文を広げて座り込んでいた、十九歳の彼。


 そのあいだ、私は何をしていたのだろう。


 ヴィンセント様の好みの色を着て、ヴィンセント様の好みの顔で笑って。約束のことなど、すっかり忘れて。


「……ごめんなさい」


 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


「私、全部忘れていたの。あなたが十年も、ひとりで約束を守ってくれていたのに。手紙が来なくなったときも、きっと向こうで新しいお友達ができたんだって、勝手に思って……」


「謝らないでください」


 アーニーは、静かに首を振った。


「あなたは何も悪くない。手紙を送らなかったのは、僕です。約束を守り続けたのも、僕が勝手にしたことです」


「でも……」


「ロティ。僕は、あなたに覚えていてほしくて守っていたわけじゃないんです」


 アーニーは、少し困ったように笑った。


「あの約束があったから、僕はシルヴァーナで十年、なんとかやってこられた。泣きたい夜も、あの紙を見れば眠れた。……あなたは、十歳のときに一度、僕を救ってくれた。それで十分なんです」


 胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。


 代わりに、ずっと聞きたかったことが、口からこぼれた。


「……やっぱり、って言ったわよね」


「え?」


「布地屋で。私が緑が好きかもしれないって言ったとき。アーニーは、やっぱりって」


 アーニーが、ばつが悪そうに視線をそらした。


「……昔のあなたが、そう言っていたので」


「だから、いつも緑の服を着ていたの?」


「……はい」


 耳まで赤くなったアーニーを見て、私は泣きながら、少しだけ笑ってしまった。




 それから私は、ひとつのことを決めて、口を開いた。


「アーニー。お返事を、今……」


「待ってください」


 アーニーが、そっと私の言葉を遮った。


「一年後に、と約束しました。……今度は、僕にもちゃんと約束を守らせてください」


「でも、私、もう……」


「今のあなたは、僕の話を聞いて、泣いています。同情や、申し訳なさが、きっと混ざっている。……それで選ばれたら、僕はたぶん、一生自分を許せません」


 アーニーは、まっすぐに私を見た。


「春まで、あと半年もありません。あなたの誕生日に、もう一度聞かせてください。そのときの答えなら、どちらでも受け止めます」


 ずるい、と思った。


 十年待った人に、たった半年待ってと言われたら、頷くしかないではないか。


「……わかったわ」




 冬が来た。


 エルスターの冬至祭の日、王都には一年でいちばん長い夜が訪れる。家々の窓に蝋燭が灯され、人々は互いに小さな贈り物を交わし合う。


 その日の午後、私はアーニーに頼んで、隣の屋敷へ招いてもらった。


「見せてほしいものがあるの」


 アーニーが、衣装箱の底から取り出してきたのは、小さな濃紺の上着だった。


 子どもの体に合わせた、細い袖。少し擦り切れた襟。そして、胸元に並んだボタンのうち、上から二番目だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。


 糸の切れ端が、まだそこに残っていた。十年前、私が引きちぎったときのまま。


「本当に、取ってあったのね……」


「捨てられなかったんです」


 私は、持ってきた裁縫箱を開けた。


 中には、街の小間物屋で何日も探して見つけた、小さなボタンがひとつ入っていた。若葉色の、硝子のボタンだった。


「ロティ、それは……」


「封蝋に使ったボタンは、証文に貼りついたままでしょう? だから、代わりのボタン」


 私は、針に糸を通した。


 抜け落ちたところに、新しいボタンを置く。表から、裏から、ひと針ずつ、ゆっくりと縫いつけていく。


 アーニーは、何も言わずにそれを見ていた。


 最後の糸を結んで、歯で切った。


「できたわ。……十年前に引きちぎったものを、返せたわけじゃないけれど」


 私は、上着をアーニーの手に乗せた。


「これで、約束は結び直しよ。今度は、ちゃんと覚えておくから」


 アーニーは、小さな上着を両手で受け取ったまま、動かなかった。


 そのまま、ゆっくりとうつむいた。


 窓の外で、冬至祭の鐘が鳴り始めた。


 アーニーの肩が、かすかに震えていた。


「……泣き虫は、治っていないのね」


「あなたの前だけです」


 くぐもった声でそう言った彼の背中に、私はそっと手を添えた。


 一年でいちばん長い夜の始まりだった。


 けれど、ちっとも寒くなかった。

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