第15話 返すはずだった証文(アーネスト視点)
二十一歳の夏、三度目の縁談が来た。
今度は、国王陛下からの直々のお話だった。三度目ともなれば、断ることは王家の面目を潰すことになる。周りの誰もが、今度こそ僕が折れると思っていた。
「先約がありますので」
玉座の前で、僕はそう答えた。
謁見の間が、凍りついた。
その日のうちに、僕は宰相補佐の内定を取り消された。数年後には宰相にと望まれていた地位だった。外交官としての仕事だけは残されたけれど、それも閑職同然の扱いになった。
廊下でカタリナ殿下とすれ違ったとき、殿下は呆れ果てた顔で僕を見た。
「あなた、本当に馬鹿ね」
「よく言われます」
「その『先約』の方、もうとっくに婚約しているのでしょう? 来年の春には、二十歳になるのではなくて?」
「ええ。来年の春で、約束の期限が来ます」
「……期限が来たら、どうするつもり?」
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「証文を、返しに行きます」
それが、僕の決めていたことだった。
ロティの二十歳の誕生日。約束の期限の日。
その日にエルスターへ行き、あの証文をロティに返す。そして、ひとこと「おめでとう」と言う。婚約者と並ぶあの子を、遠くから一度だけ見て、それで終わりにする。
十年間、僕の側だけで守り続けてきた約束を、僕の手で閉じる。それが、あの子にしてあげられる、最後のことだと思った。
ちょうどそのころ、エルスターとの通商交渉のために、一年あまりの駐在大使を送るという話が持ち上がっていた。閑職に追いやられていた僕は、自分から名乗り出た。
赴任の日取りは、ロティの二十歳の誕生日に合わせた。
それから、エルスターの知人を通じて、ひとつの屋敷を買い戻した。かつてのブライス家の屋敷だった。
父が生きていた頃の、唯一の家。証文を返したら、もう二度と、あのバラの垣根の前には立たないつもりだった。だからせめて、駐在のあいだだけでも、父の家で暮らしたかった。
……というのは、半分だけ本当だ。
もう半分は、たぶん、あの子の近くにいたかったのだと思う。最後の一年くらいは。
ロティの誕生日の夜、僕はエルスターに着いた。
上着の内ポケットには、銀の小箱と、小さな包みが入っていた。包みの中身は、若葉色のリボンだった。十歳のロティが髪に結んでいたのと、よく似た色の。
まずはミルフォード家の門の前まで行って、祝いの品だけを届けるつもりだった。けれど、門の前に着いたとき、ちょうど夜会帰りの馬車が次々と出ていくところだった。
御者たちが、焚き火の前で噂話をしていた。
「聞いたか。ケアリー家の若様、誕生日の夜会で婚約破棄だとよ」
「ああ、見てた奴から聞いた。退屈だの何だの、皆の前で散々な言いようだったらしい」
「お嬢様、気の毒にな。最後まで笑って頭を下げてたってさ」
頭の中が、真っ白になった。
気がつくと、僕は馬車でブライス家の……今は僕の屋敷になった門をくぐり、角灯をつかんで裏庭へ走っていた。
理由はわからなかった。ただ、あの子が泣きたくなったら、きっとあそこへ行く。昔、僕がそうしていたように。
バラの垣根の前に、白い寝間着姿の人影があった。
十年ぶりのロティだった。
背が伸びて、髪が長くなって、とてもきれいになっていた。けれど、垣根の前でうつむいている姿は、あの別れの日の僕とそっくりだった。
証文を差し出すつもりは、なかった。
婚約を破棄されたその夜に、十年前の約束を突きつけるなんて、弱っているところにつけ込むのと同じだ。ロティが頷いたとしても、それはきっと、僕を選んだからではない。帰る場所を失って、目の前にあった場所に飛び込むだけだ。
だから、小箱を取り出したとき、僕の手は止まった。
返すべきだ。おめでとうは言えなくなったけれど、「約束はもうおしまいです」と言って、この紙をあの子の手に戻すべきだ。
頭では、そうわかっていた。
けれど、涙を流しながら「仕方がないの」と笑うロティを見て、それでも何も言わずに去れるほど、僕は大人になれていなかった。
十年間、空けておいた場所だ。
今、あの子に帰る場所が必要なら。
僕は小箱を開け、膝をついて、言った。
「約束を、果たしに来ました」
ロティは、「考えさせて」と答えた。
そのとき僕が感じたのは、落胆ではなかった。安堵だった。
よかった、と思った。この子は、弱っているときでも、ちゃんと自分で考えようとしている。目の前の手にすがりつかずに、立ち止まることができる。
だから翌朝、僕は決めた。
一年、待とう。
婚約破棄の傷が癒えて、ロティが本当に自分の足で立てるようになって。そのうえで、それでも僕を選んでくれるのなら、そのときこそ、胸を張って結婚を申し込もう。
選ばれなかったら、今度こそ、証文を返そう。
「……これが、僕の十年です」
話し終えると、応接間はしんと静まり返っていた。
僕は、手の中の銀の小箱を見下ろした。
顔を上げるのが、怖かった。
十年も同じ紙を握りしめていた男を、あの子はどう思うだろう。気味が悪いと思うだろうか。重いと思うだろうか。
そのとき、ぽたり、と小箱の蓋の上に、雫が落ちた。
僕の涙ではなかった。




