第14話 先約がありますので(アーネスト視点)
母を失ってから、僕は泣かなくなった。
泣いても、もう誰も抱きしめてはくれない。だから、泣くかわりに、できることを全部やると決めた。
朝は誰よりも早く起きて、剣の稽古をした。昼は家庭教師について、シルヴァーナの歴史と法律と、近隣諸国の言葉を学んだ。夜は、祖父の書斎から勝手に持ち出した帳簿を、明け方まで読み込んだ。
ダンスの稽古も、毎日欠かさなかった。
教師には「公爵家の跡取りになるおつもりですか」と笑われた。そうではなかった。
いつか、もしも、もう一度あの子に会える日が来たら。そのとき、ちゃんと手を取って踊れるようにしておきたかった。……ただ、それだけだった。
服を仕立てるときは、いつも緑を選んだ。
ロティが、緑が好きだったから。
『葉っぱの上から見ると、世界じゅうが緑色なのよ。アーニーも登ってきたらわかるのに』
あの子はそう言って、樫の木の三番目の枝から、いつも僕に手を振っていた。僕は結局、一度もそこまで登れなかったけれど。
緑を身につけていると、あの枝の上の景色が、少しだけ近くにある気がした。
十六歳のとき、初めて縁談が持ち込まれた。
相手は、第二王女のカタリナ殿下だった。
そのころ僕は、従兄のバスティアンを押しのけて、エヴァレット家の跡取りとして認められつつあった。祖父にしてみれば、王家との縁組みは、家の格をさらに上げる絶好の機会だったのだろう。
「アーネスト。この縁談、受けるな?」
祖父の問いは、問いの形をした命令だった。
僕は、胸の内ポケットに手を当てた。そこにはいつも、あの証文が入っていた。
「お断りいたします」
「……何?」
「先約がありますので」
祖父の顔が、怒りでどす黒く染まった。その日、僕は生まれて初めて、祖父に頬を打たれた。
それでも、僕は首を縦に振らなかった。
十六の子どもが、十歳の子どもと交わした約束を盾にして、王家の縁談を断ったのだ。我ながら、どうかしていたと思う。
けれど、あの約束には期限があった。
二十歳まで、お互いに結婚していなかったら。
ロティが二十歳になる日まで、あの約束はまだ生きている。だったら、その日までは、僕の側から破るわけにはいかなかった。
十九歳の春、ひとつの知らせが届いた。
シルヴァーナとエルスターを行き来する商人から、何気なく聞かされた噂話だった。
「そういえば、エルスターのミルフォード伯爵家のご令嬢が、ケアリー侯爵家の嫡男とご婚約なさったそうですよ」
その夜、僕は一睡もできなかった。
寝台の上で、証文を広げたまま、朝まで座り込んでいた。
当然だ、と思った。
ロティは十七歳。伯爵家の令嬢として、婚約するのに早すぎる年でもない。相手は侯爵家の嫡男だ。家柄も申し分ない。
あの子は、もう約束を覚えていないだろう。覚えていたとしても、子どもの頃の冗談だと笑うだろう。それでいい。それが当たり前なのだ。
僕は、何度も自分にそう言い聞かせた。
そして、明け方。窓の外が白み始めたころに、ひとつのことを決めた。
邪魔はしない。
ロティが幸せになるのなら、それがいちばんいい。会いに行って、あの子の婚約を壊すようなことは、絶対にしない。
けれど、約束の片側だけは、空けておこう。
あの子が忘れても。あの子が別の誰かと幸せになっても。もしもいつか、あの子に帰る場所が必要になる日が来たら……そのとき、ひとつくらい、空いている場所があってもいいはずだ。
あの日、泣いていた僕に、あの子がそうしてくれたように。
僕は、証文を丁寧に折りたたみ、銀の小箱にしまった。その日から、それは胸の内ポケットではなく、机の引き出しの奥で眠ることになった。
同じ年の秋、二度目の縁談が来た。
相手は、やはりカタリナ殿下だった。
「先約がありますので」
僕の答えは、変わらなかった。
そのころ、僕の従者になったばかりのレイモンドが、呆れたように言った。
「閣下。差し出がましいようですが……そのお相手の方は、もうご婚約なさったのでは」
「ええ。知っています」
「では、なぜ」
「約束の期限が、まだ来ていないからです」
レイモンドは、何か言いたげな顔をした。けれど、それ以上は何も言わなかった。代わりにその夜、黙って僕の部屋に温かい茶を運んできた。
それから彼は、ずっと僕の傍にいてくれている。
二十歳の冬、祖父が倒れた。
枕元に呼ばれた僕に、祖父は、かすれた声で言った。
「……二度も王家の縁談を蹴りおって。お前は、本当に、どうしようもない頑固者だ」
「申し訳ございません」
「謝るな。……その頑固さだけは、儂に似たな」
祖父は、ほんのわずかに口の端を上げた。
それが、祖父が僕に見せた、最初で最後の笑顔だった。
祖父が亡くなり、僕はエヴァレット公爵を継いだ。
もう、僕を「落ちぶれた男爵家の子」と呼ぶ者はいなかった。
けれど、引き出しの奥の銀の小箱を開けるたびに、僕はいつも、十二歳の泣き虫に戻っていた。




