第13話 泣き虫の約束(アーネスト視点)
どこから話せばいいのか、わからなかった。
応接間の長椅子で、ロティが僕を見ている。泣き腫らした目で、それでもまっすぐに。
十年間、何度も頭の中で繰り返してきたはずの話なのに、いざ口を開こうとすると、喉の奥がひりついた。
僕は手の中の銀の小箱を見下ろし、それから、ゆっくりと話し始めた。
十二歳の春、父が死んだ。
狩りの最中の落馬だった。朝、いつものように「行ってくる」と僕の頭をなでていった父は、夕方には冷たくなって帰ってきた。
父が亡くなってから、ブライス家にはたくさんの借金があったことがわかった。屋敷も土地も、すべて人手に渡ることになった。
母は、シルヴァーナの実家へ戻ると決めた。母の父……僕の祖父は、シルヴァーナでも指折りの名門、エヴァレット公爵家の当主だった。母は若い頃、その祖父の反対を押し切って父と結婚したのだという。
「アーネスト。向こうでは、きっとつらい思いをするわ。でも、他に行くところがないの。……ごめんなさいね」
母はそう言って、僕を抱きしめた。
僕は泣いた。泣いて、泣いて、それでも足りなかった。
あの頃の僕は、とにかく泣き虫だった。転んでは泣き、叱られては泣き、ロティに木登りで負けては泣いた。そして、泣きたくなると決まって、バラの垣根の破れ目をくぐってロティのところへ行った。
出発の日の朝も、そうだった。
「アーニー、泣かないで」
垣根の破れ目の前で、ロティは困ったように眉を下げていた。
十歳のロティは、僕より頭ひとつ小さかった。若葉色のリボンで髪を結んでいて、膝には、前の日に木から落ちかけたときの擦り傷があった。
「だって……もう、会えない……」
「会えるわよ。大人になったら、会いに行けばいいんだもの」
「大人になったら、ロティは誰かと結婚しちゃう……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、もう二度とこの垣根をくぐれないのだと思うと、胸が潰れそうだった。
ロティは、しばらく黙って僕を見ていた。
それから突然、くるりと背を向けて屋敷へ駆け戻っていった。
見捨てられたのだと思った。また泣いた。
けれど、ロティはすぐに戻ってきた。手に、日記帳と羽根ペンを持って。
ロティは日記帳の頁を一枚、びりっと破りとると、垣根の柱に押し当てて、何かを書き始めた。ペン先が何度も紙に引っかかり、インクが少し滲んだ。
「できた!」
差し出された紙には、ロティの字で、こう書かれていた。
『やくそくしょ
にじゅっさいまでに ふたりとも けっこんしていなかったら
ふたりは けっこんします』
「これで、また会えるでしょ。二十歳になっても、私もアーニーも結婚してなかったら、私がアーニーと結婚してあげる」
ロティは得意げに胸を張った。
「名前、書いて。それから……あ、封蝋! 大事な約束には、封蝋がいるのよ。お父様がいつもそうしてるもの」
ロティは、どこからか蝋燭と封蝋の棒を持ってきて、紙の端に赤い蝋を垂らした。けれど、押すための印章がない。
ロティは少し考えてから、いきなり僕の上着に手を伸ばした。
ぶちっ、と音がした。
「ロティ!?」
「これでいいわ。アーニーのボタン」
小さな真鍮のボタンが、柔らかい蝋の上にぎゅっと押しつけられた。
「これで、ぜったいに破れない約束よ」
僕は、いつの間にか泣きやんでいた。
ボタンの取れた上着を着たまま、その紙を胸に抱えて、僕は馬車に乗った。窓から振り返ると、ロティがバラの垣根の前で、ずっと手を振っていた。
冗談だったのだと、もちろんわかっていた。
泣き虫の幼なじみを泣きやませるための、優しい嘘だと。
けれど、十二歳の僕にとって、それは世界でいちばん大事な紙になった。
シルヴァーナでの暮らしは、母の言ったとおり、つらいものだった。
祖父は、僕を一目見るなり言った。
「ブライスの名は捨てよ。今日から、お前はエヴァレットの人間だ。……あの男に似た、その情けない顔もな」
屋敷の使用人たちは、僕を「落ちぶれた男爵家の子」と陰で呼んだ。従兄のバスティアンは、事あるごとに僕を小突き、泣かせては笑った。
夜になると、僕は寝台の中で、こっそり証文を広げた。ロティの字を指でなぞると、少しだけ眠れた。
最初の一年は、ロティに手紙を書いた。ロティからも、返事が来た。木登りの記録を更新したこと。トビアスが初めて木に登ったこと。マーサのタルトが焦げたこと。
けれど、二年目に入って、母が病に倒れた。
祖父との確執のなかで、母の体は少しずつ弱っていった。僕は毎晩、ロティに手紙を書こうとした。けれど、書けるのは泣き言ばかりだった。
『つらい』『帰りたい』『母上がまた咳をしている』
こんな手紙を、あの子に送れるはずがない。
僕は書いた手紙を、送らずに引き出しにしまうようになった。引き出しはやがて、出せなかった手紙でいっぱいになった。
ロティからの手紙も、いつの間にか途絶えた。当然だ。返事を書かない相手に、いつまでも手紙を送り続ける人なんていない。
十五歳の冬、母が亡くなった。
最期の夜、母は僕の手を握って、かすれた声で言った。
「アーネスト。あの子との約束……大事にしなさいね」
母は、知っていたのだ。僕が毎晩、何を握りしめて眠っていたのか。
葬儀のあと、僕は衣装箱の底から、小さな上着を取り出した。十二歳のときに着ていた、ボタンがひとつ取れた上着だった。
袖に腕を通すことは、もうできなかった。
けれど僕は、それを捨てることも、どうしてもできなかった。




