第11話 来訪した王女
シルヴァーナ王国の第二王女、カタリナ殿下がエルスター王国を訪れたのは、秋も深まった頃だった。
王都は歓迎の飾りで華やぎ、新聞には連日、王女殿下の美しさと聡明さを讃える記事が並んだ。そして、その記事の端には、決まってひとつの名前が添えられていた。
『殿下のご滞在中の案内役は、シルヴァーナ大使館に駐在中のエヴァレット公爵が務める予定』
『両国の友好の象徴として、ご婚約の発表も近いのではないかとの声も』
私は新聞を畳み、窓の外を見た。
バラの垣根の木戸は、もう十日以上、開いていない。
アーニーからは、毎朝、短い手紙が届いていた。
『しばらく王宮に詰めることになりました。会えなくてすみません。今朝は霜が降りていました。風邪をひかないように。 アーニー』
『王宮の庭に、あの樫の木によく似た木がありました。登れませんでした。 アーニー』
そんな、他愛のない手紙ばかりだった。王女殿下のことには、一言も触れていなかった。
(……触れられないのかしら。それとも、私に話すようなことではないから?)
考えないようにしようと思えば思うほど、ヴィンセント様の言葉が頭の中に響いた。
『せいぜい、一年の暇つぶしだ』
王女殿下を歓迎する王宮の夜会には、ミルフォード家も招かれていた。
広間の奥、高い天井の下に、その方はいた。
カタリナ殿下は、噂以上に美しい方だった。艶やかな黒髪を高く結い上げ、深い紅のドレスをまとっている。背筋がすっと伸びていて、立っているだけで周囲の空気が引き締まるような、凛とした方だった。
その隣に、アーニーがいた。
見慣れない、シルヴァーナの礼装を着ていた。王女殿下が何か言うたびに、彼は穏やかに頷き、言葉を返している。二人が並んでいる姿は、まるで一枚の絵のようだった。
周りの貴族たちが、囁き合っている。
「お似合いね」
「やはり、ご婚約は間違いないのでは」
「隣国の王女様と公爵閣下ですもの。釣り合いが取れていらっしゃるわ」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
この痛みには覚えがある。あの誕生日の夜、ヴィンセント様がジュリア様の手を取って広間に入ってきたとき……いいえ、違う。あのときは、こんなふうには痛まなかった。
あのときの痛みは、恥ずかしさや惨めさに近かった。けれど今のこれは、もっと深いところが、ずきずきと疼いている。
(私……)
手の中の扇を、ぎゅっと握りしめた。
アーニーが、別の誰かの隣にいる。それが、こんなに嫌だなんて。
ふと、アーニーがこちらを見た。
人混みの向こうで、灰青の瞳が、まっすぐに私を捉える。その目が、ほんの少し見開かれた。
彼は何か言おうとするように、王女殿下に一礼して、こちらへ一歩踏み出しかけた。
私は、思わず目をそらしていた。
「お父様、少し気分が優れないので……先に失礼してもよろしいでしょうか」
「ロレッタ? ああ、構わんが……」
私は逃げるように広間を出た。
背中に、誰かの視線を感じた気がした。けれど、振り返ることはできなかった。
屋敷に戻っても、眠れなかった。
寝台の上で膝を抱え、私は若葉色の帳面を開いた。
『わたしの好きなもの』
若葉の緑。木登り。雨が降る前の土の匂い。レモンのタルトの焦げたところ。
そして、最後の行。インクで塗りつぶした、『アーニーの』という文字。
私は、塗りつぶしたその上に、ペン先を置いた。
長いあいだ、ためらって。
それから、小さな字で書き足した。
『アーニー』
の、何か、ではなかった。
アーニーそのものが、私の好きなものだった。
(……馬鹿ね。今さら気づくなんて)
誕生日の夜に返事を保留したのは、私だ。一年かけて口説くと言った彼に、それなら待ってと甘えたのも、私だ。
その一年のあいだに、彼が他の誰かを選んだとしても、私には何も言う資格がない。
帳面を閉じると、一滴、表紙の若葉色に涙が落ちた。




