古き呪いと、月渡りの宿命
冷たい夜気を含んだ風が、ふたりの頬をかすめる。
夜の帳がすっかり下りた村の道は、いっそう静まり返り、遠くで虫の音が儚げに響いていた。
村の入り口を抜け、石畳の坂道を上りきったところで、美緒は思わず足を止めた。
「……あ」
路地の角に佇む小さなパン屋の窓から、黄色くやわらかな灯りが煌々と漏れていた。
夜更けの暗がりの中で、その明かりはじんわりと周囲の闇を溶かしている。
「サラさん……」
美緒の胸が、じんと温かくなる。
(サラさん……起きて待っていてくれたんだ)
隣を歩くリクが、優しい声色で呟いた。
『待っててくれたんだな』
「……だね」
美緒は小さく頷くと、軋まないように気をつけながら、木製の古い扉をそっと押し開けた。
店内に満ちているのは、焼き立ての小麦と、甘いミルクが混ざり合った懐かしい香り。
その空気に触れた瞬間、張り詰めていた緊張がほどけていく。
「……ただいま、サラさん……」
「ミオっ!!」
奥からサラが駆けてきた。
現れたサラは、何も言わずに美緒をぎゅっと抱きしめる。
その腕には、確かな愛情が宿っていた。
「心配していたんだよ……。
本当によく無事に帰って来てくれたね、よかった……っ!」
「サラさん……」
耳元で震えるサラの声を聞いた瞬間、美緒の視界が急ににじんだ。
不安を押し殺して歩き続けた糸が、プツリと音を立てて切れたようだった。
美緒の目から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。
「サラさん……ごめんなさい、心配かけて……」
「謝らなくていいよ」
サラはそんな美緒の背中を、何度も優しく撫でる。
「よしよし、よく頑張ったね。
……って、手も身体もすっかり冷え切ってるじゃないか。
さあ、温かいココアを淹れようかね」
「はい……。」
美緒は涙を拭って笑った。
*
暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。
店の奥のテーブルに、湯気の立つカップがふたつ並べられる。
温かいココアが、冷えた体を芯から温めていく。
美緒は、カップを両手で包み込みながら、森で起きたことを少しずつ話していった。
ただ、リクがかつて原初の魔法使いだったことや、魔法塔を作った者だということだけは伏せた。
それは、リクと二人だけの秘密だった。
サラは途中で口を挟むこともなく、ただ黙って美緒の言葉に耳を傾けていた。
話が終わると、しばらく沈黙が続く。
「そうか……月渡り、ねぇ……」
やがてサラが、ぽつりと呟いた。
「知ってるんですか、サラさん?」
「知っているというほどじゃないけどね。
この国に伝わるおとぎ話だと思っていたよ」
「おとぎ話……?」
「そう。
――二つの月が重なる夜には、不思議なことが起きる。
それは……」
サラは言葉を切り、じっと美緒の瞳を見据えた。
「この国に、ずっと昔にかけられた古い呪い。
月渡りの夜、それを解く鍵となる者が現れる、っていう言い伝えさ」
思いがけない告白に、美緒は息を呑んだ。
胸の鼓動が早くなる。
唖然とする美緒に向かって、サラは重く、しかし優しく響く声で告げた。
「古い呪い。それはね、ミオ。
人間の「影」が突如として実体を持ち、本体である生者を襲って、その肉体を乗っ取ってしまうのさ。
影に身体を奪われた者は、自身の声も失ったまま、光の届かない闇の底へと引きずり込まれる。
すべてを飲み込みながら、世界を狂気と破壊の泥沼へと引きずり下ろす。
……知っているかい、ミオ。
数百年も昔、この呪いの暴走によって、隣国が、一夜にして滅び去ったという歴史があるんだよ」
サラは、美緒の手をそっと包むと、ゆっくりと微笑んだ。
「その闇の呪いに対抗できるのは、ただ一つの属性だけだと言われている」
美緒は顔を上げた。
「それは――聖属性」
その言葉を聞いた瞬間、リクが静かに目を細めた。
サラは美緒を見つめる。
「古い呪いに触れても、それを壊すんじゃない。
汚れた魔力を浄めて、本来の姿へ戻す力なんだそうだ」
「聖、属性……」
「そう。だけどね」
サラは首を横に振った。
「この世界には、聖属性を持つ人間はいないと言われている」
美緒は、思わず自分の胸元へ手を当てた。
女神リーナの言葉が脳裏によみがえる。
――あなたは、もう魔法が使えますよ。
「ミオ。あんたは、呪いを終わらせるために……。
そのためにここへ来たんだね」
その声は、とても穏やかだった。
美緒は、何も答えられなかった。
ただ、膝の上でぎゅっと手を握った。




