月が重なる夜
女神リーナは、月光の中で静かに佇んでいた。
二つの月明かりが重なり合い、その姿を淡く包んでいる。
『この世界には、二つの月があります。
白い月と、蒼い月』
「はい……」
リーナの声は静かだった。
その一言一言が、夜の静寂の中へ深く染み込んでいく。
『普段、二つの月は、決して重なることはありません』
リーナは空を指した。
『けれど――数百年に一度だけ。
二つの月が、同じ夜に満ち、寸分違わず重なるときがあります』
美緒は空を見上げた。
『二つの満月が重なる夜。その夜は、この世界では――』
リーナはほんの少し間を置いて、静かに告げる。
『古より、”境界が最も薄くなる夜”と呼ばれています』
「境界……?」
『ええ』
女神は頷く。
『世界と世界。その狭間を隔てている、目には見えない境界です』
リーナは夜空へ視線を向けた。
『普段なら決して交わることのない世界が、一瞬だけ触れ合う。
二つの月が重なる夜だけは、その境目が、ほんのわずかに開くことがあります』
美緒の胸が、小さく高鳴った。
「それって……。
その境目を通ったのが……」
美緒は、自分を指差した。
「私……?」
『そうです』
リーナは優しく微笑んだ。
『それが――”月渡り”』
「月渡り……」
どこか美しい響きだった。
その答えに、美緒の胸が小さく震える。
『月渡りは、この国にかけられた、古い呪いを終わらせるために――。
月が送り出した存在なのです』
「……呪いを、終わらせる?」
その言葉に、美緒の隣にいたリクが、静かに顔を上げた。
けれど、リクは何も言わない。
リーナは小さく頷いた。
『そうです。
そして――二つの満月が重なる夜に世界を渡った者には、一つの力が授けられます』
「力……?」
『ええ』
リーナは美緒を見つめた。
『――“境界の耳”。
魂の声を聞くための力です』
美緒は、はっとして息を止めた。
初めてリクの声を聞いた夜。
あのときの驚きが、鮮やかによみがえる。
黒猫は何も言わず、美緒を見上げていた。
『だから、あなたには聞こえるのです』
リーナが静かに告げる。
『狭間の存在となった、リクの声が』
「狭間の……存在?」
美緒は目を見開いた。
「じゃあ、リクは……。
一体……何者なのですか?」
リーナは、ほんの少し眉を下げた。
その表情には、悲しみと、どこか慈しむような色が浮かんでいる。
その表情に、美緒は息を呑んだ。
『リクは――この世界の原初の魔法使い』
美緒の目が大きく見開かれる。
『その本当の名は……リクヴァイン』
「リク……ヴァイン……」
その名前を口にすると、隣の黒猫がわずかに目を細めた。
『そう呼ばれるのは、久しぶりだな』
遠い記憶に触れたように、金色の瞳が揺れる。
リーナは微笑むと続けた。
『リクヴァインは、この世界で初めて魔法を体系化した者。
全ての属性の魔法が使え――そして、双月の塔を造った者でもあります』
「……え?」
美緒の視線が、森の向こうへ向かう。
村からも見えていた、空へと伸びるあの巨大な塔。
「そ、双月の塔……って……。
村から見える、あの魔法塔ですか!」
『ええ』
「リクが……あれを?」
足元の黒猫を見る。
『ずいぶん昔の話だ』
リクはふいっと顔を横に向けると、そっけなく答えた。
「ずいぶん昔って……」
美緒はもう、何が何だかわからない。
ただの黒猫だと思っていた。
少し口の悪い、でもどこか面倒見のいい猫だと思っていた。
それが実は、この世界で最初の魔法使いで。
しかも、あの巨大な魔法塔を作った本人。
頭が追いつかない。
混乱する美緒に、リーナは優しく微笑んだ。
『そして、ミオ。
あなたとリクの魂がつながったことで、眠っていた塔が目覚めました』
「……私と、リクの魂が……つながった?」
『そうです』
ますます美緒は混乱する。
ポカンとする美緒に、リーナは、どこか楽しそうに目を細めた。
『いずれ、あなたを迎えに来る者が現れるでしょう』
「え? 迎え……?」
『双月の塔への入学の迎えです』
「そ、双月の塔への入学?!」
あまりに予想外の言葉に、美緒は目を瞬かせる。
「で、でも私、魔法なんて使えません……!」
リーナはふふっと笑うと、まるで秘密を明かすように、優しく続けた。
『ミオ――あなたはもう、魔法が使えますよ』
「え……?」
美緒は固まった。
『双月の塔は、この世界の魔法使いたちが集う学び舎。
そして、その入学者は塔自身が選ぶ。
ミオ。あなたは魔法使いとして、双月の塔に選ばれたのです』
その瞬間だった。
空から差し込んでいた月の光が、少しずつ薄れていく。
白い月と蒼い月が、ゆっくりとその位置をずらし始めていた。
リーナの身体もまた、淡い光へとほどけていく。
『ああ……もう、時間ですね』
その声は、先ほどよりもずっと遠く聞こえた。
『ごめんなさい。
今夜は……ここまでです……』
「リーナ様! ま、待ってください!」
美緒は一歩、前へ出る。
「呪いは? リクはどうなるんですか? 私はこれから――」
美緒は手を伸ばす。
けれど、指先は月明かりを掴むだけだった。
リーナの姿が、少しずつ光の中へ消えていく。
美緒を見つめる瞳は優しかった。
『そう……』
最後に、女神は慈しむような微笑みを浮かべて、美緒を見つめた。
『あなたをこの世界に呼んだのは――この私です』
「……!」
美緒は目を見開いた。
けれど、その答えを問い返すより早く、リーナの姿は淡い光となって夜空へ溶けていった。
『また会いましょう、ミオ。
双月の塔へ行きなさい。
あなたならできるわ……だってあなたは……』
最後の声が、風に乗って消えていく。
(私、は……?
リーナ様は何を言いたかったのかな……)
美緒はしばらく、その場から動けなかった。
隣では、リクが夜空を見上げていた。
『……どうやら、俺たちは思っていたよりずっと深いところで、つながっているらしいな……』
「うん……みたい、だね。
……ねえ? リク」
『なんだ』
「私……魔法、使えるの?」
リクは少しだけ目を細める。
『……さあな』
「えー?」
思わず頬を膨らませる美緒に、リクは小さく笑った。
『帰るぞ、ミオ』
その声は、どこか優しかった。
二つの月が、静かに夜空を照らしていた。




