黒猫の声
「リクが……しゃべった……?」
美緒は息を呑み、目の前の黒猫をまじまじと見つめた。
窓の外では、二つの月が静かに夜空を照らしている。
銀色の光は柔らかく床をなで、焼きたてのパンの香りが残る厨房は、いつもと変わらない穏やかな時間に包まれていた。
――けれど、その静けさとは裏腹に、美緒の胸は早鐘のように激しく鳴っていた。
目の前に座るのは、いつものリク。
艶やかな黒い毛並みに、月明かりを映した金色の瞳。
すっと伸びた尾をゆるやかに揺らす姿も、毎日見慣れたまま何ひとつ変わらない。
昼間は店先で昼寝をして、子どもたちに撫でられて気ままに尻尾を揺らす、あの黒猫。
――なのに。
つい今しがた、その口から、確かに人の言葉が聞こえた。
(え? 夢?)
美緒は頬を抓った。
「い、痛っ!」
(ゆ、夢じゃ、ない?!)
あまりにも驚いた顔をしていたのだろう。
リクはそんな美緒を見上げると、どこか面白そうに口元をにっと持ち上げた。
『お?
やっぱり、お前には俺の声が聞こえるんだな』
「え……?」
美緒は何度も瞬きを繰り返す。
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「お前には……って、どういうこと?」
『言葉どおりだ』
リクは前足をきちんと揃え、いかにも当然という顔で答える。
『俺の声は、他の連中には聞こえない』
「えっ?!」
思わず声が裏返る。
「サラさんも?」
『ああ』
「村のみんなも?」
『聞こえない』
美緒はしばらく言葉を失い、ゆっくり息を吸うと、自分を指差した。
「……私だけ?」
リクは静かにうなずく。
『そういうことだ』
その一言が、夜の静寂に小さく溶けていく。
厨房には、再び静けさが戻った。
美緒は胸の前でそっと指を組む。
鼓動はまだ落ち着かない。
「……え? なんで……?」
胸の奥から、自然と言葉がこぼれる。
その問いは、リクへ向けたものなのか、自分自身へ向けたものなのか、美緒にもわからなかった。
リクはすぐには答えなかった。
金色の瞳を細めると、遠い昔を思い返すように、ゆっくりと天井を見上げる。
やがて、小さく息をついた。
『理由は……』
言いかけて、口を閉ざす。
しばらくの沈黙のあと、リクはゆっくりと美緒を見つめ返す。
『……今は、言えない。』
その声音には、先ほどまでの飄々とした調子はなかった。
静かで、少しだけ寂しそうだった。
「え?」
『その代わり――』
リクは静かに続ける。
『お前に、会ってほしい人がいるんだ』
美緒は思わず息を止めた。
「会ってほしい……人?」
『ああ』
黒猫は、窓の外へ視線を向けた。
月の淡い光が、森の稜線を銀色に縁取っている。
『明日の夜、森へ行く』
その一言だけを残し、リクはひらりと床へ飛び降りる。
月明かりに照らされた黒い背中は、不思議なほど静かで、美緒には少しだけ遠く見えた。
「リク……」
返事はなかった。
黒猫はただ、二つの月を見上げていた。




