村のぬくもり
異世界での暮らしは、思っていたよりずっと忙しかった。
夜明け前。
まだ空に二つの月の名残が淡く残るころ、美緒は厨房へ向かう。
「おはよう、ミオ」
「おはようございます、サラさん!」
粉を量り、水を混ぜ、何度も何度も生地をこねる。
最初は力加減もわからず腕が痛くなったが、毎日続けるうちに、少しずつコツがわかってきた。
「そうそう。焦らなくていいんだよ。
パンはね、人の気持ちが伝わるもんだから」
「はい!」
「ミオ、それにしても、上手くなったねえ」
「本当ですか?
ふふっ。サラさんのお陰ですね!」
サラに教わりながら、一つひとつ覚えていく。
彼女に褒められるたび、美緒は照れくさそうに笑った。
焼き上がったパンを並べ、店先を掃除し、配達へ向かう。
そんな毎日が続いていた。
*
サラは、美緒のことを、村の人たちには「遠くに住んでいる親戚の子」と紹介してくれていた。
誰も深く詮索しない。
「そうかい、サラの親戚か」
それだけで、村の人たちは温かく迎え入れてくれた。
その優しさが、美緒には嬉しかった。
朝から晩まで働く毎日。
忙しいのに、不思議と苦ではない。
むしろ、一日が終わるころには心地よい疲れと、小さな達成感が胸に残る。
いつの間にか、美緒の表情から不安は消え、笑顔が増えていた。
サラも、美緒を本当の家族のように接してくれる。
「本当に、親戚の子が遊びに来てくれてるような気分だよ」
そう言って笑うサラの顔は、とても優しかった。
元の世界へ帰りたいという気持ちが、なくなったわけではない。
けれど、この村で過ごす毎日は、不思議と心を穏やかにしてくれた。
*
パンが焼き上がるころには、村にも朝が訪れる。
香ばしい香りに誘われるように、人々が店へやって来た。
「おはよう、ミオちゃん」
「今日もいい匂いだねぇ」
配達へ出れば、さらにたくさんの人が声を掛けてくれる。
「おーい、ミオ!」
野菜を抱えたおじさんが大きく手を振る。
「帰りに寄ってくれ! サラに持って行ってくれな!」
「はーい!」
子どもたちも、元気いっぱいに駆け寄ってくる。
「ミオねえちゃーん!」
「この前のパン、すっごく美味しかったよ!
今日まだあるかな?」
「うん。まだ大丈夫だよ」
「やったー!」
美緒もつられて笑顔になる。
「ふふ。また後でね!」
*
ある日、美緒はサラに言う。
「サラさん、パンの中に、甘いクリームを入れてみませんか?」
サラは目を丸くした。
「え? クリーム? 中に入れるのかい?」
「はい!」
試行錯誤を重ね、ようやく完成したクリームパン。
ふわふわの生地の中に、とろりとした甘いクリームが詰まっている。
店に並べると、あっという間に大評判になった。
「これ、美味いな!」
「中から甘いのが出てきた!」
「こんなパン、初めて食べたぞ!」
「もう一個くれ!」
昼には売り切れ。
翌日は倍の数を焼いたのに、それでも午後には棚が空っぽだった。
「すごいな、ミオ!」
常連のおじさんが豪快に笑う。
「お前が考えたんだってな?
天才か、お前!」
「そんなことないですよ!」
近くで聞いていた村人も大きくうなずいた。
「本当ね!」
「毎日食べても飽きないわ!」
美緒は慌てて手を振る。
「わわ! そんな、大げさですよ!」
けれど、頬は自然と緩んでしまう。
皆の笑顔を見るたび、美緒は胸がぽかぽかと温かくなるのだった。
*
閉店後。
片づけを終えた厨房には、静かな時間が流れていた。
(うーん‥‥‥)
美緒はノートを広げ、腕を組んで考え込んでいた。
「クリームパンときたら……やっぱり次は、アンパンだよね!」
想像しただけで笑みがこぼれる。
頭の中では次々に新しいパンが浮かぶ。
「ジャムパンもいいし、そのうちカレーパンも作ってみたいなぁ……。
きっとみんな喜んでくれると思う!」
思わず笑みが浮かぶ。
「よーし!」
袖をまくり、美緒は試作を始めた。
「まずは餡を作らないとねー!」
材料を並べながら、鼻歌まじりに棚の壷へ手を伸ばす。
「えっと、お砂糖、お砂糖……っと」
その瞬間だった。
『おい』
不意に、すぐ近くから声がした。
『お前な。それ、塩だぞ?』
「……あ、そっか!」
美緒は慌てて壺を戻す。
「あっぶなー! 危うくしょっぱい餡になるところだった!
お砂糖はこっち……」
そこまで言って――ぴたり、と動きを止めた。
「…………え?」
ゆっくりと、ぎこちない動きで振り返る。
窓辺では、一匹の黒猫が前足を揃えて座っていた。
黄金の瞳が、じっと美緒を見つめている。
「…………え?」
リクは小さくため息をついた。
『ああ、そっちが砂糖だ』
美緒の目が、大きく見開かれる。
「ええぇぇぇぇっ!?」
静かな夜に、美緒の驚きの声が響き渡った。
「リクが……」
黒猫を指差し、口をぱくぱくさせる。
「リクが……しゃべったぁぁぁっ?!」
黒猫はニッと笑うと、尻尾をひとつ揺らしたのだった。




