ふたつの月
佐伯美緒、高校二年生。
放課後、部活動を終え、いつものように最寄り駅から家へ向かって歩いていた――はずだった。
気がつくと、深い森の中に立っていた。
「え……?」
美緒は息を呑み、慌てて振り返った。
さっきまで歩いていたはずの道は、どこにもない。
ただ木々が果てしなく続いているだけだった。
(えっ……? えっ?!)
心臓が激しく脈打つ。
(なに……ここ? どこなの……?!)
木々は空を覆い隠し、昼なのか夕方なのかもわからない。
湿った土の匂いと、葉擦れの音だけが耳に届く。
そのときだった。
森の奥から、低く響く唸り声が聞こえた。
「……っ!」
全身が凍りつく。
ぞわり、と背筋が震える。
(やばい……何かいる!!)
考えるより先に、美緒は走り出していた。
枝が制服を引っかき、足元の根に何度もつまずきそうになりながらも、枝をかき分け、息を切らしながら必死に駆ける。
どれほど走っただろう。
突然、視界が開けた。
森を抜けた先には一本の街道が伸び、その向こうには見知らぬ景色が広がっている。
そして――。
「……え?」
美緒は立ち尽くした。
夕暮れ色の空に、月が二つ浮かんでいた。
一つは見慣れたような白い月。
もう一つは、少し小さく、淡い蒼色の光を湛えている。
「月が……ふたつ……?」
理解が追いつかない。
現実感が音を立てて崩れていく。
足元がふらりと揺れ、景色が遠ざかる。
そのまま、美緒の意識は静かに闇へと沈んだ。
*
目を覚ましたとき、一番最初に感じたのは、焼きたてのパンの香ばしい匂いだった。
温かな空気が頬を包み、どこか安心する甘い香りが鼻をくすぐる。
ゆっくりと目を開くと、木の天井が見えた。
「気がついたかい?」
優しい声に導かれるように顔を向けると、ふくよかな女性が穏やかな笑みを浮かべていた。
その足元では、一匹の黒猫が金色の瞳でじっと美緒を見つめている。
「ここは……?」
「小さな村さ。
あんた、街道で倒れていたんだよ」
「街道……」
あの二つの月が脳裏によみがえる。
あれは夢ではなかったのだろうか。
女性はゆっくりとうなずいた。
「私はサラ。この村でパン屋をやってるんだよ」
サラは穏やかに微笑むと、黒猫の頭を優しく撫でた。
「この子はリク。
この子が慌てて飛んできてね。
何事かと思って行ってみたら、あんたが倒れていたんだ」
黒猫は「にゃあ」と短く鳴くと、どこか得意げに尻尾を揺らした。
「それで、あんたは一体どうしたんだい?」
「え……あ、その……私は……」
*
美緒は戸惑いながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。
学校の帰り道だったこと。
気づけば森にいたこと。
唸り声が聞こえて、慌てて逃げだしたこと。
自分でも信じられない話を、サラは最後まで静かに聞いてくれた。
すべて話し終えると、部屋にはしばらく静かな時間が流れた。
「……そうか」
話を聞き終えたサラは、小さく息をついた。
「ミオっていうんだね。不思議なこともあるもんだ」
「サラさん……」
美緒は恐る恐る尋ねる。
「信じて……くれるんですか?」
サラは優しく笑うと、迷うことなく頷いた。
「もちろんさ。
嘘をついているようには見えないし、何よりその服だよ。
この辺じゃ見たこともない」
制服姿の美緒を見つめながら、サラは静かに続けた。
「本当に、この世界じゃないどこかから来たんだろうね」
そして少しだけ考えるように目を細めると、にっこりと笑った。
「ねえ、ミオ。
行くあてがないなら、うちで働かないかい?」
「え……?」
「住み込みでいいよ。
朝は少し早いけどね。この部屋も好きに使っておくれ」
「い、いいんですか……?」
思わず身を乗り出す美緒に、サラは力強くうなずく。
「もちろんさ。
ちょうど人手が欲しいと思ってたところなんだ」
サラは温かな笑顔を浮かべると柔らかな声で続ける。
「元の世界へ帰る方法が見つかるまで、ここで暮らせばいい」
その言葉に、美緒の胸の奥で張り詰めていたものが、ふっとほどけた。
目には自然と涙がにじむ。
「ありがとうございます……!」
深く頭を下げる。
「よろしくお願いします、サラさん!」
「こちらこそ、よろしくね」
その日から、美緒の新しい暮らしが始まった。
それから数日のうちに、美緒は少しずつ理解していく。
台所では、薪もないのに青い炎が鍋を温め、誰も触れていない竈に魔法の火が静かに灯り、箒がひとりで床を掃いている。
夜になれば、空には二つの月が静かに並んで浮かんでいた。
美緒は窓辺に立ち、その光景を見上げる。
(……本当に、異世界なんだ……)
驚きよりも、不思議と静かな納得が胸に満ちていく。
その事実を受け入れるまで、そう長い時間はかからなかった。




