黒猫に宿る者
静かな部屋に、時計の針の音だけが響いていた。
語り終えたエルファルは、しばらく黙っていたが、ゆっくりと黒猫へ視線を向ける。
「リクヴァイン様……」
その呼びかけに、リクの耳がぴくりと動いた。
「お話ししても、よろしいですね?」
少しの沈黙。
やがて、リクは静かに答えた。
『‥‥ああ』
エルファルは小さく頷くと、美緒へ向き直った。
「それでは……。
リクヴァイン様について、お伝えしましょう」
*
エルファルは、そっと視線を落とした。
「リクヴァイン様は、もともと……この国の王家に生まれた、王子殿下でした」
「……王、子……!」
美緒は、思わずリクを見る。
エルファルは語った。
リクヴァインは、幼い頃から、類まれな魔力を持っていた。
そんな彼が何より熱心に取り組んでいたのが――古の呪いを解く研究だった。
この古の呪いを解くことを、生涯の目的とし、世界中から志を同じくする優秀な魔術師たちを集めたのだった。
それが――双月の塔の始まり。
そこでエルファルの声が、わずかに沈んだ。
「けれど……研究が進むほど、呪いの恐ろしさも明らかになっていきました」
美緒は黙って耳を傾ける。
「呪いを解くには、その根源に近づかなければならない。
リクヴァイン様は、呪いに侵されたとされる街の近くに滞在し、調査を続けておられました。
けれど、それはあまりにも危険だった」
そして――。
「ある日、呪いに襲われたのです」
部屋の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
「幸い、リクヴァイン様はご自身を強力な結界で覆っておられました。
そのおかげで、どうにか街から逃げ出すことができた」
エルファルは、一度言葉を切った。
「ですが……塔へ戻るまで、身体が持たなかったのです。
呪いは、すでに魂にまで及んでいました」
『……ああ』
初めて、リクの声が低く響いた。
エルファルは静かに頷く。
「魂だけになれば、やがて消えてしまう。
そう悟ったリクヴァイン様は、とっさにご自身の魂を……近くにいた黒猫へと憑依させたのです」
美緒は何も言えなかった。
ただ、目の前にいる黒猫を見つめる。
「そして、今に至ります」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて美緒が、ぽつりと尋ねる。
「……リクの身体は……?」
エルファルは静かに答えた。
「この塔の地下にございます」
「……!」
「厳重な結界で守り、今も大切に安置されています」
「そう……なのですね……」
胸の奥に、いくつもの記憶が蘇る。
――魔法の手本を見せてほしい。
以前、自分がそう言ったとき。
『無理だ。俺の身体は――』
あのときのリクの表情。
言葉の先を飲み込んだような、どこか寂しげな顔。
今なら分かる。
美緒は目を伏せた。
「……私、何も知らなくて……」
声が少し震えた。
胸の奥が痛む。
「そうだったんだね……。
ごめん。リク」
リクはしばらく美緒を見つめていた。
やがて、ふっと目を細める。
『お前は知らなかったんだから……仕方ない』
「でも……」
『気にするな』
美緒は顔を上げた。
そして、黒猫の瞳をまっすぐに見つめる。
「リク……」
『ん?』
美緒は小さく息を吸った。
「約束するよ」
その声には、もう迷いがなかった。
「私は、呪いを解く」
白銀の光が、ほんの一瞬だけ美緒の指先に宿る。
リクの瞳が、わずかに揺れる。
「そして――リクの身体も取り戻す。絶対に」
『……ミオ……』
「……エルファルさん」
美緒は立ち上がり、彼女へ向き直る。
「私、頑張ります」
その瞳には、決意と、ほんの少しの不安。
自分に何ができるのかも、まだ分からない。
それでも、その奥には確かな光があった。
「この世界を救うためだけじゃありません」
美緒は胸元で、ぎゅっと拳を握った。
「リクにも、もう一度、自分の身体で生きてほしいから」
エルファルはしばらく美緒を見つめていた。
やがて、その表情がゆっくりと柔らかくなる。
「……はい」
静かな微笑みだった。
「その言葉を、ずっとずっと……待っていたのかもしれません」
美緒の足元で、黒猫の尻尾が小さく揺れた。
リクは、ゆっくりと目を細める。
その金色の瞳に映る美緒の姿を、確かめるように。
『……まったく。
とんでもないことを約束しやがって』
呆れたような声。
けれど、その声は――不思議なほど、温かかった。




