千年の闇
部屋の中には、まだ砕けた魔水晶の欠片が残っていた。
白銀の光が消えたあとも、美緒の手には、不思議な温もりが残っていた。
胸の奥からじんわりと広がるような、柔らかな温かさ。
不思議だった。
けれど――。
目の前に立つエルファルの表情は静かだった。
先ほどまで浮かんでいた驚きはすでに消え、今はどこか遠い過去を見つめるような眼差しをしている。
人払いをしたエルファルは、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……では、お話ししましょう」
その声は穏やかだった。
「この世界に伝わる――古の呪いについて」
美緒は小さく頷いた。
「はい……お願いします」
*
「この国にかけられた呪いは、今からおよそ千年前に始まりました」
「千年前……」
美緒は思わず息を呑んだ。
エルファルは部屋の壁際へ歩み寄ると、そこに並べられていた古い書物を一冊、そっと手に取った。
長い年月を経た表紙は色褪せ、角はすり減り、見慣れない紋章が刻まれている。
「当時、この世界には大きな争いがありました」
エルファルが本を開く。
「魔法を持つ者と、持たない者。
その境目から生まれた争いです」
エルファルは本を開く。
黄ばんだページには、二つの月と、その下で争う人々の姿が描かれていた。
「最初は、ほんの小さな恐れだったのでしょう。
知らないものを恐れる気持ちは、誰の心にもありますから。
けれど、恐れはやがて疑いとなり、疑いは憎しみへと変わっていきました」
指先が、古い挿絵をゆっくりとなぞる。
「そして、その憎しみの中から……ひとりの強大な魔法使いが生まれたのです」
美緒は黙って耳を傾ける。
「その者は、自らの力を使い、この世界そのものに呪いを刻みました」
エルファルがページをめくる。
「その呪いは、人の魂に触れます」
「……魂に?」
「はい」
エルファルの指が、挿絵の黒い影をゆっくりとなぞった。
「魔脈を通じ、空気中の魔素を通じ……人の心から、少しずつ光を奪っていくのです。
そして……心の奥に生まれた影は、その人自身を蝕み始めます」
最初は、ごく小さな変化。
眠れなくなる。
笑えなくなる。
何を見ても、何を聞いても、心が動かなくなる。
誰かと話すことさえ、億劫になってしまう。
「そして最後には、魂が闇へ沈む」
「……!」
美緒の喉が、小さく鳴った。
「乗っ取られた者は、自分の意思を失います。
そして身体から溢れ出した呪いが、瘴気となって周囲へ広がっていく」
エルファルは静かに目を伏せる。
そこには、黒い霧に覆われた街が描かれていた。
美緒の脳裏に、サラの話が蘇った。
――街の中を、真っ黒な影が歩いている。
「この呪いには、通常の魔法が届きません」
炎も。
水も。
風も。
雷も。
どれほど強大な魔力をもってしても、魂に刻まれた呪いを消すことはできない。
「呪いを消すには、その表面ではなく――呪いの核、その根源へ直接干渉しなければなりません」
そして、エルファルは美緒を見る。
「聖属性だけが、それを可能にするのです」
美緒は、自分の手を見つめた。
先ほど傷を癒した、白銀の光。
「……私の、力……」
「はい。
聖属性だけが、呪いに触れることができる」
エルファルは微笑んだ。
「数百年に一度、二つの月が重なる夜。
境界を越えてやってくる者――月渡りには、“境界の耳”が授けられます」
「魂の声を聞く力……」
「ええ。
そして、その魂に寄り添い、聖なる力を届ける器にもなる」
美緒の胸が、大きく鳴った。
けれどエルファルは、そんな美緒を安心させるように、柔らかく続けた。
「ただし――あなた一人ですべてを背負う必要はありません」
美緒が顔を上げる。
「……え?」
「あなたが呪いと戦うため、この世界へ来たのだとしても」
エルファルは、まっすぐに美緒を見つめた。
「それは、あなた一人で世界を救えという意味ではないのです」
その言葉が、温かなものとなって胸へ染み込んでいく。
「だからこそ、あなたには学んでいただきたい」
「学ぶ……?」
「そうです。魔法を。歴史を。
そして、この世界に生きる人々のことを」
美緒はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「私……知りたいです」
その声は小さかった。
けれど、そこには明確な決意があった。
「この呪いのことも。私の力のことも……」
美緒は顔を上げる。
「この世界のことを、全部」
エルファルは静かに微笑んだ。
「ええ」
月明かりのような、穏やかな声だった。
「それでは――始めましょう」
千年続いた闇の、その先へ。
その続きを紡ぐために。
今度は、美緒自身が――その物語の中へ歩み出す番だった。




