満月の旅立ち
満月の夜が、やってきた。
白い月と蒼い月が、静かな夜空に寄り添うように浮かんでいる。
村はすっかり眠りに包まれ、遠くの森から風の音がかすかに届いていた。
(いよいよだ……)
美緒は何度目か分からないほど、小さく息を吐いた。
胸の奥が、落ち着かない。
楽しみな気持ちもある。
けれど、それ以上に緊張していた。
これから向かうのは、魔法使いたちが集う場所――双月の塔。
――自分には、本当に何ができるのか。
考え始めると、胸がきゅっとなる。
そんな美緒の手には、大きなバスケットがあった。
中には、たくさんのパンが詰まっている。
サラと一緒に考えた、思い出のパンたち。
ふっくらと焼き上がったアンパン。
甘酸っぱいジャムを包んだジャムパン。
香ばしい衣の中に、スパイスの効いた具材を包み、村の人たちがすっかり気に入ってくれたカレーパン。
そして――。
――「こんな形、初めて見たぞ!」
――「なんだこれは、魔獣の角か?!」
くるくると巻かれた生地の中央に、甘いクリームが入ったコロネ。
最初に作ったとき、村の人たちは目を丸くしたものだ。
けれど、ひと口食べれば大好評。
今ではすっかり、村の人気者だ。
異世界に来てから過ごした時間。
サラと笑った日々。
村の人たちがくれた温かな言葉。
その全部が、この小さなバスケットの中に詰まっているような気がした。
美緒はバスケットを抱き直す。
「……よし!」
美緒が顔を上げた、そのとき。
遠くから、風の音が聞こえた。
――ヒュウゥ……。
月明かりの向こうから、何かが近づいてくる。
やがて、それは大きな馬車だと分かった。
月光を受けて銀色に輝く車体。
その馬車を引いているのは――翼を持つ白い馬たちだった。
翼が大きく羽ばたくたび、淡い光の粒が夜空へ舞い上がる。
「すごい……!」
思わず声が漏れた。
馬車はゆっくりと地上へ降りてくる。
やがて扉が開き、白銀の髪を月明かりに揺らしながら、エルファルが姿を現した。
「お迎えに上がりました、ミオさん」
エルファルは柔らかく微笑む。
「ご準備は、よろしいですか?」
美緒はもう一度、村を振り返った。
窓から漏れる、あたたかな明かり。
ここで過ごした時間が、胸いっぱいに込み上げてくる。
それから、しっかりと頷いた。
「はい……。
よろしくお願いします」
少しだけ声が震えた。
その瞬間、サラが美緒をぎゅっと抱きしめる。
「……行っておいで、ミオ」
「サラさん……」
「すごい魔法使いになって、帰っておいでよ?」
サラの声は、少しだけ震えていた。
けれど、その顔には優しい笑顔が浮かんでいる。
「だって、あんたは……」
ぎゅっと腕に力を込める。
そして、少しだけ身体を離すと、美緒の顔を見つめた。
「私の、大切な娘なんだからさ」
「サラ……さんっ!」
美緒の目から、とうとう涙がこぼれた。
そのままサラへしがみつく。
「ふふ……」
サラは笑いながら、美緒の頭を優しく撫でた。
「さあ、行きなさい、ミオ。」
少しだけ離れて、美緒の顔を見る。
「ほら。顔を上げて」
サラの手が、美緒の頬をそっと包む。
「笑って?」
美緒は涙を拭うと、精一杯の笑顔を浮かべる。
「……はい!」
サラはその笑顔を見て、満足そうに頷く。
それから、足元の黒猫へと視線を向ける。
「リク。
お前も、頼んだよ」
リクは静かにサラを見上げた。
そして、こくりと頷く。
長い尻尾が、ゆらりと揺れた。
まるで、『任せろ』とでも言うように。
「……行ってきます! サラさん」
「ああ。行っておいで、ミオ」
美緒はバスケットを抱え直し、馬車へ向かう。
サラはエルファルへと向き直る。
「……お待たせしました」
その表情は穏やかだった。
けれど、その瞳には、娘を送り出す母親の強い願いが宿っている。
「私の大切な子なんです」
サラは深く頭を下げた。
「どうか……よろしくお願いします」
エルファルは静かに微笑み、頷いた。
「はい。もちろんです。
どうぞ、ご安心ください。必ずお守りいたします」
エルファルは馬車へ向かうと、片手を宙へ掲げる。
淡い光が広がった。
「では――参りましょう」
その瞬間、ペガサスたちが大きく翼を広げた。
風が舞い、馬車がふわりと宙へ浮かび上がった。
「サラさん!」
美緒が身を乗り出して手を振る。
「行ってきます!」
「ミオ! 元気で!
気をつけるんだよー!」
サラも大きく手を振り返す。
馬車は夜空へと昇っていく。
二つの月の光が、その姿を柔らかく照らしていた。
やがて馬車は小さくなり、星々の向こうへ消えていく。
それでもサラは、動かなかった。
夜風に髪を揺らしながら、ずっとその場所に立っている。
「……いってらっしゃい。
待ってるからね……!」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
けれど、その言葉には――
いつか必ず帰ってきてほしいという願いと。
どうか幸せになってほしいという、祈りが込められていた。




