5.大嫌いなディモス
ディヴァルディア帝国の威信たる帝都に聳える皇城の中を、アンナリーザとファヴィオは歩いていた。
通りかかる使用人たちが丁寧に膝を折っては足早に去っていく。今日の夜会は必ず参加しなければならない、そう言いつけられてファヴィオのエスコートでここまでやってきた。
できることならアンナリーザだって出席したくはなかった。けれども、他ならぬディヴァルディア帝国皇帝その人の生誕祭を欠席するわけにはいかないだろう。
「……… 」
「おお、これはロレンツォ侯爵閣下」
「 …ラインフェルト侯爵閣下」
大広間に入ってすぐに、すらりとした長身の男が声をかけてくる。オティリオの父親であり、ラインフェルト侯爵家の侯爵である。オティリオによく似た爽やかな美貌に笑みを乗せ、アンナリーザを見遣る。
「 これは、珍しいですね。アンナリーザ嬢もご一緒とは」
「ご機嫌麗しゅうございます、ラインフェルト侯爵閣下。 」
すぐに膝を折り、丁寧に挨拶を済ませば男は楽しげに笑う。
「 なに、いやはやすぐにでも息子のティフィスにしたいものです」
ティフィスーー運命の恋人を指す言葉にアンナリーザは微笑みを浮かべる。
「まあ、勿体ないお言葉ですわ。ですけれど、ディモスにラーヴァローラは射止められませんもの 」
「 おや、これは手厳しい」
「 ……アンナリーザ」
静止するようなファヴィオの言葉に、アンナリーザは静かに口を閉じる。曖昧な笑みを浮かべ、シルヴェリオに視線を向ける。
「大変申し訳ありませんわ。小娘が生意気な口を利きました 」
ファヴィオはアンナリーザの謝罪など気にもとめた様子もなく、静かに口を開いた。
「ラインフェルト侯爵閣下。私はあなたの頼みとあらば、もちろんイリトルウィヤの糸をつなげても構わないと思っているのです 」
「 ほう、それはまた」
「 いつまでもラーヴァローラの眷属でいさせては、いいことなんてないでしょう」
シルヴェリオも頷き、アンナリーザを見下ろした。
「そうですね。こちらとしてもアンナリーザ嬢とイリトルウィヤの導きがあるほど光栄なことはありません。 ああ、そうだ。オティリオを呼びましょうか」
「 そうしてください。彼らが父母神のようになるならばそれがいい。」
アンナリーザの内心なんて知らないくせに。
父母神?愛し合って結ばれた地父神たるアグラセディエメスと地母神たるメルセディートゥスのように、アンナリーザとオティリオがなる?怖気がする。
「 お呼びでしょうか、父上」
やってきたオティリオがアンナリーザとファヴィオを見つめ、それから父であるシルヴェリオを見、何かを感じ取ったように柔らかな笑みを浮かべる。
「 お前のティフィスだ」
シルヴェリオがからかうようにそう言った。
通常の貴族令嬢であれば、頬を染めるだろう。由緒正しいラインフェルト侯爵家の、この美青年の妻になれるのだと。
アンナリーザは静かに笑みを浮かべたまま、オティリオの胸元に視線を固定していた。
あの軽薄な、青灰色の瞳と目を合わせたくなかった。
「 …アンナリーザ」
オティリオが軽々しく呼んだアンナリーザの名前に、思わず顔を上げた。
薄いくちびるに笑みを乗せたオティリオがアンナリーザを見下ろしていた。
「そう、呼んでも? 」
「……構いませんわ 」
微笑みを浮かべたまま、頷いた。
「 こちらに行きましょう、貴女とダンスを踊りたい」
「 ……」
ラーヴァローラの眷属、いつもならそう言って断るはずの誘いに、アンナリーザは頷くしかない。高貴な両家の当主が、そう決めたのだ。アンナリーザを、オティリオに嫁がせると。
「 ……構いませんわ」
オティリオにエスコートされるように歩き出す。視界の端に見えたファヴィオは、静かにシルヴェリオと歓談しているようだった。
まるでこちらのことなど、興味がないと言いたげに。
オティリオは悠々と人波を抜け、大広間の奥の扉からすっと身を引いた。その動きに違和感を感じて、アンナリーザは腕を払うように力を入れた。
「 ミスタ=ラインフェルト?どこに行くおつもりなの?」
「…嫌ですね、アンナリーザ 。私のことはオティリオと。貴女の、デュリオンなんですから。」
「……… 」
ティフィスと、デュリオン。男が運命の女を指すティフィス。それから、女が運命の男を指すデュリオン。
ぞわり、と走った本能的な嫌悪感に、アンナリーザはぱっとオティリオの腕を拒絶するように払う。
「……何をおっしゃっているのかわかりませんわ。ディモスが花を得たからといっていい気にならないでくださいませ 」
「 可愛いですね、アンナリーザ」
オティリオは静かに笑い、アンナリーザの手を引いた。優しく指先を絡めるように繋がれて、鳥肌が立つ。
「 オティリオ、そう呼んでください」
「…… 」
「 強情ですね、アンナリーザ」
指先に口づけられた。甘く湿ったくちびるが、爪先を味わうように動く。
「 ………っ…やめなさい…」
「 どうして?貴女は私のティフィスだ」
「…… 」
「やめてほしいならーー呼んでください、オティリオと 」
急かすようにオティリオのくちびるがアンナリーザの手首に触れた。じゅ、と噛むように吸われて、不快さに吐き気がした。痛みと屈辱に視界が真っ赤になるような錯覚をおぼえる。
「 ………オティリオ」
怒りに似た諦めと同時に、その名を吐き出す。その名を舌に乗せることさえ受け入れがたいことで、身体中に虫が這ったような不快感が襲う。
「 …アンナリーザ……」
オティリオが嬉しそうに笑みを浮かべ、アンナリーザの顎を掬った。
「 ディモスの気持ちが分かりますよ。なぜ彼があれだけの危険を犯して、夜闇に眠るサグラティウィルーナと関係を結んだのかーー」
熱っぽい青灰色の瞳が、嫌で仕方がなくて。
身体をよじる。小さな抵抗は、オティリオに優しく制止された。
「 犯し難いものほど…人は惹きつけられる」
「………気色が悪い 」
汚いものを吐き出すように、心の底からそう言えば、オティリオは仕方がなさそうに苦笑した。
「 何がそんなに気に食いませんか?」
「 …そんなの、全部に決まっているでしょう」
「 全部?困りましたね。」
オティリオはアンナリーザのおとがいを捕らえたまま、頬をなでるように親指でなぞった。微かな動きに、びくりと肩が震えた。
「 私は貴女をこんなにも愛しているのに…強情で、賢くて……そして、脆い」
「 ……っい……」
強く爪で頬を掴まれて、痛みに顔が歪んだ。
「 …ああ、ごめんなさい。痛かったですか?」
「 手を離して…!やめなさい」
強く睨む。こんな男に嫁ぐだなんて、冗談ではなかった。オティリオは困ったように眉を下げて微笑むと、降参するように顔のあたりまで手を引き上げた。
「 それなら、賢い貴女がわかるように説明してあげましょうか?」
「 ……」
言っている意味が分からずに、オティリオを見上げた。一歩分の距離を残して、アンナリーザとオティリオは向かい合っていた。
窓から差し込んだ月光が、オティリオのくすんだ金髪を輝かせた。
「 ロレンツォ侯爵閣下は、自分の代で家を閉じようとしているんですよ。理由は分かりますか?」
「 ……ロレンツォ侯爵家を…?」
「 ええ、そうです」
オティリオは笑い、五本の指をアンナリーザに見せるように軽く振った。
「 アヴォレード、カルディア、セノフォンテ、テスティーノ、レグレンツェ、ご存じですか?」
「 …当たり前でしょう」
オティリオの言葉の行方が分からず、困惑交じりに返した。アヴォレード、カルディア、セノフォンテ、テスティーノ、レグレンツェといえば、ここ数十年で一気に台頭してきた一門だ。彼らは暴力や裏の商売などで得た莫大な財力を背景に貴族を凌ぐ力を手に入れた。父たるボスに絶対の忠誠を誓うその在り方から、彼らは自身の組織をファミリーと呼んだ、なんて有名な話である。
「最近ではファミリーに目をつけられた小貴族への傷害事件も増えていますからね。」
「 …それがどう関係するというの?」
「 簡単な話ですよ。この国の皇帝にもはや力はない。」
「… 不敬だわ」
「そうかもしれませんね。ですが、事実でしょう? 」
そう言われれば何も言えなかった。老皇帝の下には、ターベアート帝国に嫁いだ娘皇女と、幼い皇子がひとりだけ。産業革命が進むなかで、貴族の占有や権力による圧政は民衆の不満を生んだ。度重なる重税により、職を失った者たちはファミリーに集まるようになり、それはやがて大きな組織となった
「 貴族制は廃れつつある。ロレンツォ侯爵は皇帝陛下の忠臣の一人ですからね。大方増えすぎた貴族の家門の削減の一貫として、家門統合の話でもあったんでしょう。これはあくまで予想ですが。」
「それで、わたくしと貴方を結婚させようと? 」
「それもあります 」
「 ……」
先の戦争によって貧しい者たちは死か、ファミリーへの服従かを選んだが、富裕な商人やそれなりに豊かな平民たちは、長らく続く帝政への誇りと安定を信じている。現皇帝の娘ーーエルリカ皇女はターベアート帝国へと嫁ぎ、ターベアートからもたらされる物産が帝国に富を生んでいるといっても過言ではない。帝政の揺らぎと、革命への僅かな期待。それは小さな小さなーーまるで水面に投げ込まれた小石のようにーー混沌を創り出していた。
「皇帝陛下はファミリーを手の内に引き入れたいと考えている。敵対するより、優遇して恩を売ったほうが良いーーーですが、現実はそう簡単ではありません。でしょう? 」
アンナリーザは静かに考えた。
確かにファミリーの動きは、近年活発だ。五大ファミリーのうち幾つかの家門を筆頭に、帝国が所有する劇団や美術館に押し入り暴動を起こしたり、下級貴族の使用人たちを殺傷したりしていると聞く。それらがディヴァルディア帝国に対するテロであるのは明白なことだったし、帝国が潰えればそれらは"革命"と呼ばれるだろうこともまた明らかだった。
万が一、革命が成功したときには、皇帝の懐刀であり、政治の中枢である侯爵家は大きな危機にさらされるであろう。新しく成った新政府がどの程度のもので、どのような思想を持っているのかは不明だが、かつて大きな権力を握っていた侯爵家を疎ましく思うのは間違いない。
「ファミリーの彼らは彼ら自身の信条を持っている。そして、彼らには、わざわざ力のない皇帝陛下に力を貸してやる理由がない 」
「 ……」
話の流れが見えてこなくて、アンナリーザはオティリオを静かに見上げた。オティリオの青灰色の瞳が、アンナリーザを捉えて楽しそうに緩む。
「陛下は、ファミリーとの友好を諦めて敵対を選んだんです。そのために、親皇帝派の派閥が欲しい。だからこそ、親皇帝派筆頭のロレンツォとラインフェルトを結びたいんですよ 」
「…… 」
「ですから、アンナリーザ。これは陛下のご意思。それゆえに貴女が私を嫌っていても、残念ながら別れることはできないんです」
知っている。
そんなこと、とっくに知っていた。
そもそも、貴族の娘が親から定められた婚姻を覆すことなんてできない。当たり前の話だ。
「 …そう。残念ですわ」
オティリオが伸ばした指先を軽く払い、歩き出す。
「 でも、安心いたしましたわ。わたくし、貴方と父母神のように睦まじくならなければならないと思っておりましたけれど、そうではないようですから。」
「 …なるほど。アンナリーザ、そんなことを言わないでください」
「 …そんなこと?当たり前のことでしょう。陛下の忠臣としての義務ということならばわたくしももちろん引き受けますわ。たとえ、そこに愛などなくても」
「 愛は育むものですよ、アンナリーザ」
「そうですか。では他所で育んだらよろしいのではなくて?数多の花を好んだディモスのように 」
微笑みを浮かべたまま、オティリオを見上げてそう言う。
「 はは、手厳しいですね、アンナリーザ」
オティリオは軽く笑い、素早くアンナリーザの指先に口づけた。笑みを浮かべたまま、冷たい瞳でオティリオを見つめた。不快さに身体中が冷えていく気がする。
「 ………?」
不意に、オティリオが余裕の色を乗せた青灰色の瞳を、不思議そうに瞬いた。
視線はアンナリーザの背後。
「…… 」
怪訝に思ってアンナリーザもその視線を追って振り返る。
「ーー こんばんは、いい夜だね」
美しい、男がいた。




