4.大嫌いな夜
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ザース=リージュ=シャルルーー母の故郷だった今は亡き王国。
その国には伝説があった。
七人の兄王子と一人の王女の物語。
ザース=リージュ=シャルルがまだその名前でなかった頃に、戦が起こった。妹を愛する兄たちは、妹のために心臓を捧げ、兄たちの七つの心臓が王女の身を守った、簡単に言ってしまえば、そんなふざけた伝説だった。
『 お母様と、アンナリーザの秘密。いい子にできる?』
『うん…!アンナリーザ、いい子いい子する! 』
『そう。偉いわね、アンナリーザ 』
母は優しく教えてくれた。
母の白くて華奢な指先が、アンナリーザの胸元を優しく辿った。心臓の上にそっと手のひらを重ね、アンナリーザに尋ねかけるように小首を傾げた。
『アンナリーザ。ここにはね、七つの心臓があるのよ 』
『 ……?』
アンナリーザがきょとんと目を瞬けば、母は優しく目を眇めた。
『 でもそれは、誰にも言っては駄目。できる?』
『 ……うん』
『 いい子』
母がそう言って立ち上がる。
その華奢な足首には、無骨な鉄の足輪がぶら下がっていた。
じゃらり、と思い金属音が跳ねて、幼いアンナリーザは母に目を向ける。
『おかあさま、いたいいたい? 』
『 …いいえ、痛くないわ』
母の金色の瞳は、柔らかく潤んでいた。まるで、揺蕩う川面みたいに。
『 お母様はね、幸せなの』
『しわあせ? 』
『 そう、しあわせ。幸せなのよ。アンナリーザがいて、わたくしのことを、愛してくれる人がいるの。お母様はね、とってもとっても幸せなのよ』
『 ……おかあさまがしわあせなら、アンナリーザも、しわあせ!』
そう、と母は優しく微笑んでアンナリーザの赤い髪を掬った。
『いい子。いい子だから、ね。どうか幸せになって、わたくしのアンナリーザ 』
覚えている。
その柔らかい言葉を、いつまでも。
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赤色は嫌いだった。
大嫌いな男と同じ色だから。
「 ……」
嫌いな男のエスコートで、綺羅びやかな大理石の床を優雅に歩む。わずかに乗せただけの手のひらは、直に触れるのさえ不快で黒い刺繍の手袋をはめていた。
男ーーファヴィオ=ディ=ロレンツォーー即ちアンナリーザの父であり、現侯爵ーーは、アンナリーザのささやかな拒絶に気がついているのかいないのかむっつりと押し黙ったまま口を開こうとはしない。
そのほうがいい。
喋ったって、どうせいいことなんてないのだから。
アンナリーザも父も、お互いにいい感情なんて抱いていない。
「……… 」
真っ赤な薔薇の意匠のドレスは、この男が用意したものだった。大嫌いな赤。
「 ………ラインフェルト侯爵家のご令息に、抗議文を出したと聞いたが」
重々しく切り出された言葉に、アンナリーザは視線すら合わせずに冷ややかに返す。
「 …それが、何か?」
「 ……相手方はいい思いをしないだろう」
「 ………」
小さく息を吸って、深く吐き出した。
「 大変申し訳ありませんわ。短慮ゆえに、そこまで気が回っておりませんでしたの」
謝罪を紡げば、ファヴィオもまた沈黙する。
「ラインフェルト侯爵家は、お前とのイリトルウィヤの結びがあることを期待しているようだ」
イリトルウィヤの結びーーーすなわち、婚姻関係や恋人関係を意味する言葉に、アンナリーザは内心で思いっきり顔を歪めた。
(…あの男………! )
「 …イリトルウィヤの結び?」
嫌悪を吐き出すようにそういえば、ファヴィオもたじろいだように見えた。
「 …いつまでも婚約者がいないというのも、外聞が悪いだろう」
ファヴィオの言葉にまた苛立ってしまって、どうしようもない。
婚約者がいない?
そんなものを決めるのは親だろうに。自分で探して自分で婚姻を結べと、そう言うのか。
ただ黙って視線を逸らせば、ファヴィオは深い息を吐き出した。煙草の香りが混じった呼気がアンナリーザの鼻に届く。
「 ラインフェルト侯爵家のご令息は嫌いか」
「嫌い? そんなもの、ラーヴァローラがフェリスディーリアを好くようなものですわ」
笑みの形を描いたくちびるから、そう落とす。愛の女神フェリスディーリアは地父神アグラセディエメスと、天空の女神クラーヴィナとの間にできた子供であり、その関係は不実なものだった。母である地母神を慕い、なによりも貞淑を重んじる女神ラーヴァローラがフェリスディーリアを嫌ったのは有名な神話の一節である。
「 ……ラインフェルトに嫁げとは言わない」
「…… 」
微笑みを浮かべたまま、静かに沈黙した。
この男が嫌いだった。
命令しかできないくせに、最終的にアンナリーザにすべてを委ねようとしてくることが。父親じみた優しさを向けようとしてくるところが、大嫌いだ。
今だってこうやって、まるで我儘に困ったような反応をする。
「……… 」
ファヴィオは呆れたように不快ため息を吐き出し、またむっつりと歩きはじめる。
「 お前はジュヌヴィエーヴには似ていないな」
「…… 」
どうにか保った笑みのまま、アンナリーザは静かに口の中で頬を噛む。
鉄の味が広がって、不快さに正気に戻る。
母に似ていない、なんて。そんなことよく知っていた。
似ているところと言えば、満月のような金の瞳。ただ、それだけ。
「…いくぞ 」
ファヴィオはため息とともに言葉を吐き出す。見上げた血のようにくすんだ赤の髪は、撫でつけられていて艶がなかった。皺が刻まれた不機嫌そうな素顔は、若かりし頃の美貌を残しつつも、年相応の色香を感じさせた。
ただアンナリーザはその歩みに従う。
それがどれだけ不快なことであっても。




