3.今と過去
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「 ーー侍女長」
アンナリーザの部屋を出たゲルダは、侍女長ーーゲルダの母であるヨハナを見つけ、声をかけた。
焦げ茶色の髪をきつく結ったヨハナは、緩やかに顔を上げると、ゲルダに気づいて僅かに目を細める。
「 …どうかしましたか、ゲルダ」
侯爵家に仕える立場である限り、実の親子であっても上司と部下のように振る舞うようにと、きつくゲルダを躾けたのはヨハナだった。
「 いえ、特段用事があるわけではないのですが」
「そうですか、では早く行きなさい。私語はなるべく慎むことです」
愛情深く育ててくれた母であるが、公私の区別は非常に厳しい。
慌てて頭を下げて、ゲルダは歩き出す。
歩きながら、不意にアンナリーザの顔が思い浮かぶ。ゲルダの大切な主は夜会といった社交場があまり好きになれないようだった。そのせいか、帰ってきたときには顔色が悪いように見えた。
化粧を落としてしまえば、色白の頬に血色がないことなんてすぐに分かる。
それに、短い言葉の節々から察するに、今日はどうやら彼女の苦手な男とも出会ってしまったらしい。ラインフェルト侯爵家の次男、オティリオ。侯爵家別邸の使用人たちには要注意人物と認定されている男である。
ーーディモスだかなんだか知らないけど、お嬢様に絡むのだけはやめてほしいわ
オティリオはなぜかアンナリーザに執着している。それはアンナリーザが社交に出始めた頃くらいからで、アンナリーザのげっそりした顔を見たのはその時が初めてだった。
『わたくし、あの人苦手だわ 』
『……あの男……気色が悪い…… 』
『羽虫よ、不快 』
次々に過激になっていく言葉が脳裏を駆け巡る。妹のように可愛がっているアンナリーザにあんな顔をさせる男を、ゲルダが好きになるわけがない。
沸々と沸き上がってきた怒りを抑え、ゲルダは己に与えられた仕事を全うするため、動き出した。
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『ーー アンナリーザ、わたくしの可愛い可愛いお姫様』
白い指先が、頬に触れる。
だれだ?
懐かしい香り。鈴蘭のように可憐な。
靄がかかったような視界が、次第に鮮明になる。
月光を溶かしたみたいな、淡い金髪。満月をそのまま埋め込んだみたいな金の瞳が、優しくこちらを見つめている。
『アンナリーザ、わたくしの可愛い子 』
桃色に染まったくちびるは、緩く綻んでいる。
ああ、そうーー
母だ。
『愛しているわ 』
覚えている。その柔らかな言い方も。そっと頭に乗せられた重みも。全部。
お母様、と呼びたいのに。意思とは反対に身体は硬直したまま。
まるでただその風景を見ているみたいに。
『 アンナリーザ』
優しい声が、溶けていく。
ああ、消えてしまうと思った。
身体が浮遊する。一瞬感じる酩酊感。
手を伸ばす。
「ーーおかあさまーーっ! 」
見慣れた天井。荒く肩で息をする。
額が冷たい汗に濡れていることに気がつく。
どうやら夢を見ていたようだった。
アンナリーザは額に張り付いた赤毛をかき上げると、一度深く息を吸って、吐く。
真っ黒な夜空に、女神の輪郭を余すことなく切り取ったみたいな白い満月が浮かんでいた。それだけで、眠りについてからそう時間が経っていないのだと分かる。
母の夢をみたのは、ずいぶんと久々だった。
あの頃は、何度も反芻したはずなのに。
母は、亡国の姫だった。精霊のように美しくて、優しい人だった。
夢を見たせいだろうか。母の姿が傍にあるように鮮明で。
(お母さまは、今のわたくしを見て褒めてくださるかしら?)
小さく自嘲した。母が何を望むかなんて、もうアンナリーザには分からないのだ。籠の鳥だった母は、アンナリーザには自由を望んだ。けれどその一方で、誰よりもアンナリーザの身を案じていた。侯爵家に籠もって、ほとんどと言っていいほど人との交わりを絶ったとーーそれも、忌まわしいあの男の言いつけでーーと知ったら、母はきっと困ったように笑うのだろう。貴女のお父様はほんとうは優しい人よ、不器用なだけ、それが母の口癖だった。
母は腱を切られた鳥だった。空に憧れながら、飛ぶことを諦めていた。諦めることを知っていた。だから、母の世界の全ては、父とアンナリーザでできていた。
そんな母でさえ、父にはアンナリーザの秘密を教えなかった。それ程までに、母はアンナリーザを愛していたし、父を愛していた。
だんだんと温かい睡魔が襲ってきて、自然と瞼が下がっていく。静かに目を閉じたアンナリーザは、そのまま意識を夢の中へと沈めた。




