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2.厄介な男

「 ……」


ーー早く帰りましょう


あの男の顔を立ててやる必要なんてないではないか。夜会に出席した時点で、アンナリーザは彼からの命令を遂行している。


そう、早く帰ろう。


「 ーーー……」


会場へと戻り、出入り口へと戻ろうとした瞬間、アンナリーザは思わず深いため息を落としそうになった。


最悪だ。どうして今夜はこんなにも間が悪いのだろうか。


「 これはなんという偶然でしょうか、ミス=ロレンツォ。イリトルウィヤも私の恋路を見守ってくださっているのでしょうね?」


「ご機嫌よう、ミスタ=ラインフェルト 」


彼が近づくことを牽制するように、アンナリーザはばさり、と扇を開いて口元を覆った。


疲れている、という表情を作ってオティリオを見下すように見つめる。


「 …どうしてこのようなところに?もしやもうお帰りになるのかしら」


「 帰ろうと思っていたわけではないですがーー美しい貴女に出会えたのですから、ここにいて良かったというものです」


「…相変わらず素敵なお口ね。そこの陰に隠れているお嬢さんがいなかったら、わたくしだって多少は信じてあげましたのに 」


隠れているつもりなのか、分厚いカーテンの後ろで、誰かがびくりと肩を揺らした。

大方給餌の女性かーーはたまた貴族令嬢だろうか。


オティリオは苦笑する。薄いくちびるが綻んで、柔らかく笑みの形を描いた。


「 ーー私を狩りの神ディモスだと言ったのは貴女ですよ?」


多くの浮き名を流したディモスと同じだとでも言うように、オティリオは笑う。

アンナリーザは視線を冷たくして、冷ややかに返す。


「ラーヴァローラとディモスは結ばれないと何度言ったらお分かりになるのかしら」


「ミス=ロレンツォーー貴女のように美しく高慢な獅子を手懐けるのが楽しみです 」


近づいてきたオティリオが、アンナリーザの扇を静かにつかみ、おとがいを捕らえた。


「 ーーっ、何をーー」


「 ディモスだって、孤高だった闇の女神サグラティウィルーナを一夜だけの幻であってもーー堕としたんですよ?貴女を落とせないはずがない」


耳朶に触れるように囁かれ、思わず腕を払い除けた。けれども力強い腕に捕まったせいで、身動ぎさえできない。


「 このーー!離しなさい!」


「可愛いひとだ」


睦言を囁くように、オティリオのくちびるが耳元で震えた。

両手は既に彼の掌のなかにある。


口づけをするように、彼の唇が触れるか触れないかの距離で、アンナリーザの頬を沿う。


「ーーっ!やめなさい! 」


オティリオのブルーグレーの瞳が、暗闇に吸い込まれるように、溶ける。


「ーーっ!」


口づけが落ちる、と思った瞬間に、拘束が解かれる。


「 貴女を堕とすのは、無理やりではつまらないですから、ね?」


「 …っ…侯爵家には後で抗議をさせていただくわ。この、無礼者」


掴まれていた腕をさすり、踵を返す。

気色の悪さに鳥肌が立っている。


「 …それから、恋人でもない女性にティフィスなんて言葉を使うのは感心しないわ」


「心配してくださっているのですか?ミス=ロレンツォ 」


「 勘違いしないで。貴方に騙される可哀想な女性を減らすためよ」


彼はもう、追いかけてこようとはしていないようだった。


それに気がついて、アンナリーザはほっと肩の力を抜いた。



*****



夜会から帰ってきたときには、もう既に二の刻を回っていた。


ロレンツォ侯爵家の別邸は、アンナリーザ個人の屋敷みたいなものだった。

迎え入れてくれたゲルダが、アンナリーザの羽織っていた外套を受け取ると、恭しく頭を下げる。


「 お帰りなさいませ、お嬢様」


「もう寝ていてもよかったのに。遅くまでごめんなさい 」


「ーー私が寝てしまったら、誰がお嬢様のお世話をするのですか? 」


ゲルダが深い緑の瞳を誂うように細めるので、アンナリーザも釣られて笑う。


「…確かに、その通りね。待っててくれてありがとうゲルダ」


慣れた調子でアンナリーザのドレスを脱がせながら、ゲルダは何かに気がついたようにアンナリーザを見つめた。


「 …お嬢様。どうしたのです、この腕は」


ゲルダの視線を追うように、自身の右腕を見て、アンナリーザはああ、と頷いた。

オティリオに掴まれていた部分が赤くなってしまっている。明日になればすぐに消えるだろうが。


「 手癖の悪いディモスがいたのよ。最悪なことにね」


「 …ディモス?女性の腕をこんな風になさるなんて」


ゲルダが眉を顰める表情があまりにも可愛らしいので、アンナリーザは思わず笑ってしまう。


「 ラインフェルト侯爵家の次男坊様よ。貴女も知っているでしょう?」


「…お嬢様がいつも絡まれるという面倒な男ですね? 」


「 その通りよ。ああ、そう。あとでラインフェルト侯爵家に苦情の手紙を書きたいの。明日の朝に持ってきてくれる?」


ゲルダが頷いたのを視界の端に捕らえ、渡されたネグリジェを受け取る。


「 後は自分でできるから。遅くまでありがとう、ゲルダ。貴女はもう寝て頂戴」


「 …そうですか?分かりました。また何か用がございましたら、いつでも呼んでください」


「 ええ、わかったわ」


深々と礼をして、ゲルダは去っていく。

手早くネグリジェを身に纏うと、寝台へと倒れ込む。


今日は酷く疲れた。

 

社交なんて出たくもないのに。

あの男ーーーアンナリーザの大嫌いな、男。

普段は外に出ることを頑なに禁じるくせに、時折そうやって自分の都合を押し付けてくるあの男が大嫌いだった。


疲れているからだろうか。


脳裏に、血を被ったみたいな赤毛が浮かぶ。自分とお揃いの、真っ赤な髪。大嫌いなあの男の色。


早く夢の世界へと逃げていきたいのに、不快な記憶ばかりが蘇る。


ほとんど表情の読めない、朽ちかけた灰みたいな暗い色の瞳。


言葉でさえもアンナリーザのことは紡がないくせに、行動ばかりを要求する冷たい指先。


大嫌いな、あの男。


ああ、もう。


これでは全然眠れないではないか。



アンナリーザは枕にきつく顔を埋めて、なんなの色も、記憶も浮かばなくなるくらい強く目を瞑った。



*****

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