第九十五話 <反撃の狼煙>
ヒーナは春野菜がふんだんに入ったシチューにスプーンを突っ込みながら、目の前の男を凝視していた。
日に焼けて色黒、彫りの深い顔ではあるが、端整でいて優しい顔付きは、女性にも見える。
着ている服は、袖と胸にフリルの付いた白いカッターシャツに、薄い青色のベストであり、その着飾らない気楽さが余計に彼を若く見せていた。
「命を助けて頂いたのは有難い事です…」
その声はやはり、ヒーナも聞き覚えがある。
彼はまぎれもなくアドリアンである。
負傷して虫の息だったアドリアンは、エリーゼの治癒の力で救われた。
エドワールは劇場の屋根から落ち、しばらく苦しんでいたがそのまま息を引き取った。
それを聞いたアドリアンは、憑き物が落ちたように明るくなって、もさもさと生えていた髭を剃り、眉毛も手入れし、髪も短髪に切った。
最初にその姿を見たヒーナは、アドリアンだと名前を聞いてもなお、別人だと思っていた。
「しかし、あなた方にとってオレは、生焼けのクッキーのようなものじゃないですか?焼けなきゃ捨てるし、焼ければ食べる…どっちにしても、オレは消費されるんだ」
そうぼやくアドリアンに、口の中の野菜を飲み込んだエリーゼが、
「あら?クッキーは喋らなくてよ」
と皮肉を言った。
「生憎と、このクッキーは文句を言うもんでね」
と返すアドリアン。
「あら?気持ち悪いクッキーね。そんなクッキーが美味しいわけないわ…ねえ?」
アゴを突き出してそう言うエリーゼは、変貌した男を見つめるヒーナにたずねる。
ぼうっとしたいた黒髪の少女は、慌てて皮肉を言う金髪の少女を見ると、彼女は少し笑っているように見えた。
「美味しいかどうかは、食べてみないと分かりません。いっそ、口がきけなくなるまで焼いてみては?」
ヒーナの答えにエリーゼは笑い出した。
「でも、普通のクッキーになられては困るのよ」
そう言ってもなお、笑い声を上げている。
アドリアンは頬をひきつらせながら、
「まったく…小娘達が徒党を組んで、大人をからかうもんじゃあない…」
と言ってシチューを掬った。
そこに、今まで黙ってシチューを食べていた第一執政のシャロンが口を出す。
「エドワールのマントにあった印、劇団員の自白から、今回の暗殺事件に梟党という組織が関与している事が判った。そこら辺りの事情に一番詳しいのはあなたではないのかな?クッキー殿」
それに、エリーゼが真顔になって付け加える。
「軍の大編成で、今は人材が足りません。どうか、復帰してもらえませんか?」
スプーンを置いたアドリアンは、「うーん」と腕組みして考えた。
あの劇場へ出向かって観劇などしていてはいけないと、わざわざ二人のミツカイに教えに行ったアドリアンは、ヒーナとエリーゼと話をしているグリューと出会った。
アドリアンはエドワールからたどってその情報を掴み、二人に報せに来たのだが、城へ来た時には既にその対策も済んでいた。
それは、その鼠のグリューという男が、カントアで水死した男からたどってミツカイ暗殺の謀略という結論を出していたからだ。
ただ、アドリアンも鼠も、銃という新兵器を暗殺に使うとは、思ってもいなかったのだが、少なくとも、恐ろしい陰謀は潰えた。
しばらく唸っていたアドリアンは、重い口を開いた。
「…今まで情報を提供してくれていた者を部下として雇い居れる事を許可してくれ。それと…鼠を…鼠を一匹、手下に加えてもいいか?」
「鼠?」
不審な顔でシャロンがたずねる。
シャロンの質問にはヒーナが答えた。
「鼠のグリュー。そういう渾名の男です」
シャロンは少し皮肉っぽく笑って、「クッキーが鼠を雇うとはな…」とつぶやいた後で、
「鼠の件は、その鼠次第だが…。情報提供者を部下に、というのは公式には難しい。その者達は今、行商や職人なんかの仕事をしているのだろう?」
とたずねた。
アドリアンはうなずく。
シャロンはそれを確認してから、
「その代わり、と言っては何だが、元帥と同列の位だ。その気になれば何十人と愛人を囲える程の給金だぞ?」
と提案する。
アドリアンはふっと笑った。
「クッキーにそんなにお金が必要かね?…要は、その金で情報を提供してくれる部下を私的に雇えってこったな…」
そして、少し考えた後で口を開いた。
「わかった、諜報部長官になるよ。梟とは、決着を付けたいからな…」
アドリアンの目には一瞬、髭もじゃの頃の、暗い池の底のような色が漂った。
「梟のババ様がいらしてますわ」
エーマがあまり嬉しくなさそうな顔でそう告げた時、雪は丁度食事を終えたところであった。
「あの年寄りにしては、遅かったじゃあないか?」
と言って、雪は紅茶をすする。
ここは、ポード国の首都ロンドの中央広場沿いにある高級なレストランの一室である。
料理をするのは料理人は、フランの首都プリスの有名店で修行したという。
出される料理はポード国の伝統料理を中心にしているが、創意工夫を凝らしたこの店オリジナルの料理も多い。
この銀鳩亭での定番料理は、なんといってもローストビーフとマッシュポテトであろうか。
ソースなどかけなくても十分美味しいローストしたビーフと、ほかほかのポテトにかけるソースを、五種類のオリジナルソースから選ぶ事が出来る。
雪はここの、サワークリームソースを気に入っていた。
少しだけサワークリームが残った空になった皿を持って、無愛想な顔でエーマが部屋から出ていく。
銀鳩亭が高級な店なのは、こうやって多くの部屋に別れた個室で、客のプライバシーが完全に守られるというのも理由の一つだ。
勿論、料理を下げたり持ってきたりするのも、通常はレストランのウェイターの役目だが、客の要望に応じて自分達で、もしくは自分達の雇った給仕に料理を上げ下げさせる事も可能だ。
そうなると、プライバシーは完全に守られる。
料理もさることながら、そういう理由で、雪は密会する場所をこの店に決めている。
出て行ったエーマの代わりに紫のドレスをまとい、派手な宝石を付けた老婆が入って来た。
「雪様、ご機嫌よう」
雪は左手のひらを見せ、
「挨拶やおべっかは不要だ」
と言って、本題を要求した。
そこへ、紅茶を持って来たエーマが入ってきて、老婆の立っている前のテーブルに紅茶を置いた。
いつもはすぐに腰掛けるババが、今日に限って椅子に座らず立ったままなのを少し不審に思っていたが、エーマは紅茶を出すと自分の席に戻る。
そのエーマが丁度ババの後ろを通り過ぎようとしたとき、
「ヒーナの暗殺、失敗しました…」
とババが言った。
背後ながら、ババの後頭部を嬉しそうな顔で凝視するエーマ。
雪は深い溜め息を吐いた。
「そうか…まぁ、あの小娘は簡単には死なないか…」
「申し訳ありません。腹心の部下に任せていましたが、その部下も、大切な駒も、かなり失いました…」
ババは深く頭を下げた。
「それ以外に代償は?」
雪が問う。
「…おそらく、梟の存在がフランにも知られたかと…」
ババはそう言うと苦々しい顔をした。
「そうか…まぁ、腹を決めるんだな」
雪は無表情な顔で老婆を見つめた。
ポード国がフラン国に滅ぼされるような事態になれば、当然、フランはミツカイを暗殺しようとした組織を放ってはおかないだろう。
つまり、梟党は、ポード国と運命を共にする事となったと言っても過言ではない。
もう、フランの侵略に合わせてフラン国に尻尾を振るなんていうこともできなくなったのだ。
「…えぇ、ポード国を我が祖国と決めてから、その覚悟さねぇ」
そうつぶやきながら、老婆は席に座った。
そして紅茶を一口すすってから、
「今日はそのお詫びに、一つ、重要なお報せをと思いましてね…」
と、話を切り出した。
「雪様は近く、ネストを取り戻す戦いをされるでしょう、ねぇ?」
静かにうなずく雪を確認してから、ババは続ける。
「ネストには梟の隠れ家があるのですが、それが丁度、城壁の一部の真下にあるのさねぇ」
ネストの町の城壁は、二重になっている。
外側は低く、内側は高い。
壁と壁の間は堀になっていて、浅いのだが、ネストの住人の生活排水が流れている。
町の西側の近くには川が流れており、そこから南北二本の堀が掘られ、その川から北側の堀に水を引き込み、南側の堀から排水している。
汚水は、水門を通って西に流れる川へと流れ込むように時計回りに循環しているのだ。
では上水はどうしているのかというと、ここには地下に川が流れており、ごうごうと音を立てながら流れる綺麗な水を上水として利用しているのだ。
何も知らない旅人が、その地下水にゴミを捨てたりしないように、厳しく取り締まられている。
「ネストの町には地下水が流れているな…地下には水だけでなく、梟も潜んでいるという事か?」
雪は淡々とそうたずねた。
ババはポーチからキセルを取り出し、煙草を詰めた。
そして、テーブルの上のランプを手繰り寄せ火を付けると、雪の質問に答えた。
「地下水が多いが故に、あの町の地下には空洞が多いのさねぇ。町の西側、水路の真ん中にあるそれを利用して、賭場を建てたのは、もう十年も前の話さね…」
そして、ふうっと煙を吐く。
「その空洞は内壁の真下あたりまで達していましてね…空洞を崩してしまえば、上の、内と外の壁は崩れ落ちるさなぁ」
「待て。崩すくらいなら、そこを通って町の中にも入れるのではないか?」
その言葉を聞いた老婆は、ふんふんと感心した様子で答える。
「さすがは雪様、よくお気付きで。しかし、その空洞っていうのが曲者でしてねぇ…以前、賭場の拡張工事で崩落しかけたくらいの脆さなのさねぇ。ですから、穴を掘るより崩す方が早いと」
ババは煙の向こうでニヤリと笑った。
「うまく出来るか?…いや、愚問だった。うまくやれないなら、ババがこうして話しに来ないものな…」
そして、雪は短い鼻息を吐いた。
「よし、専門家の下見を遣ろう。それから作戦をたてる」




